<龍馬を語ろう> 第32回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第18話・感想

 「龍馬伝」第18話。お話の進行時期は文久3(1863)年1月〜4月頃。文久3(1863)年元日。29歳の龍馬は近藤長次郎とともに大坂に向かいます。(実際には千葉重太郎も同行しています)劇中では勝海舟とともに、幕府の軍艦「順動丸」に乗り込み、大阪へ向かっていましたが、この時、龍馬・長次郎・重太郎が「順動丸」に乗船していたことを示す確たる根拠はないようです。明治維新研究家の松浦 玲氏はその著書『検証・龍馬伝説』(論創社、2001年)で「龍馬たちは陸路を上京していったん京都に入り、それから兵庫に入港していた海舟のところへやってきたのかもしれない」と推測していらっしゃいます。また、文久3年元日の海舟日記には「龍馬、昶次郎、十太郎ほか一人を大坂へ到らしめ、京師に帰す」とあるので、順動丸には乗らず、大坂・京都で活動していたのかもしれません。龍馬や長次郎が陸路上京→兵庫で海舟と合流したとすればこのシーンはフィクション。確実な記録がないので、僕もこの説を採りたいと思います。

さて、大坂へ至った龍馬たちは望月亀弥太千屋寅之助(維新後 菅野 覚兵衛と改名 龍馬の妻 お龍の妹 君江と結婚)・高松太郎らを海舟門下に引き入れます。(1月8日)

1月15日海舟が容堂のもとを訪れ龍馬の「脱藩罪」赦免を願い出たエピソードは前回触れた通りです。この時海舟は龍馬の甥である高松太郎と新しく門下生になった望月亀弥太を連れていたといいます。

山内容堂の側近である寺村左膳の日記・文久3年2月22日条には「坂本龍馬か事 此者郷士也 先年勤王論を以て御国出奔、(脱藩)薩長之間を奔走し頗る浪士之名声有りと云・・・」と記しています。この、土佐藩重臣が居並ぶ大会議で龍馬の脱藩罪赦免について話し合われたものと思われます。(龍馬は京都土佐藩邸で1週間の謹慎)

話が脱線しました。冒頭、大坂へたどり着いた龍馬たちは佐藤与之助に出会います。佐藤与之助って誰!?実はこの与之助さん近年の坂本龍馬研究で注目されるようになった人物です。佐藤与之助は文政4(1821)年12月出羽国山形の農家に生まれました。若い頃から西洋砲術を学び、勝海舟の門人となったのは、ペリー来航後の安政元(1854)年、与之助34歳の時。海舟のもとで測量・器械・砲術を修め、海舟が長崎海軍伝習生となるに際してはその家来として付き従いました。文久3年神戸に海軍操練所が設立されると、
龍馬とともにその塾頭(「神戸操練所詰」)となり、海舟の活動を支えました。海軍操練所 「外交の龍馬・内政の与之助」 まさに海舟の両輪といった所でしょうか。与之助は龍馬たちから大変慕われたそうです。近藤長次郎・お徳夫婦の媒酌人をつとめています(9月 長次郎結婚 翌年7月 息子 百太郎生まれる)
また与之助は元治元(1864)年、大坂城で第14代将軍徳川家茂にお目見え。同年の海軍操練所廃止に際してはその事後処理に当たっています。

一説には海舟に龍馬の死を伝えたのは与之助だともいわれています。

維新後、与之助は民部省に出仕し明治政府に鉄道の重要性を説き、これにより政府の鉄道建設責任者となり大阪・神戸を結ぶ鉄道の開通に尽力しました。

明治10(1877)年8月2日死去。享年57歳。

海舟の公私にわたる「秘書役」だったといえるでしょう。

なお、劇中龍馬が与之助を「先生」と呼んでいましたが、あくまで2人は同志であり同格だと思われます。

さて、土佐藩当局から正式に「脱藩」の罪を許された龍馬(2月25日)は慌しく活動しています。大坂にむかう順動丸の中で幕府目付・杉浦正一郎と話し込んだり(1月22日 新撰組の前身 浪士組結成の話か? 龍馬も浪士組の候補にあがる)時には仇討ちの計画を練ったり(2月5日 岡田某・近藤長次郎・新宮馬之助・黒木小太郎らと協議の結果、岡田星之助を討つべきことに議決した旨を勝海舟に伝える)息をつく間もなく活動しています。

めまぐるしい日々を送る龍馬たち。どのようにして学んでいたのでしょうか。龍馬の雑記帳とも龍馬の甥・高松太郎の備忘録とも伝えられる「雄魂姓名録(ゆうこんせいめいろく)」には「少年(ヨングメン)」・「町人(トウンスメン)」といったオランダ語交じりの英単語からA〜Zのアルファベット、航海術の専門用語、はてはカステラの作り方といったものまでが並んでいます。

龍馬たちの希望に溢れた日々がありありと眼に浮かぶような史料です。

兵庫に大坂にと活躍する海舟の身を案じた龍馬が、岡田以蔵を海舟の護衛につけたのが文久3年の3月4日。以蔵はこの頃流行していた「天誅」と呼ばれる暗殺行動を行い「人斬り以蔵」と恐れられる一方、素行が悪いことで仲間からも距離を置かれていました。この時期はどうやら高杉晋作のもとにおり高杉から金を借りたりしていたようです。

こんなエピソードがあります。
海舟と以蔵が通りを歩いていると、三人の浪士が現れ斬りかかってきました。海舟の前に出た以蔵は「弱虫どもが何をするっ!」と一喝し、一人を斬ると、残る二人は一目散に逃げて行きました。後日、海舟が「君は人を斬る事をやめた方がいい。」と嗜めると、以蔵は「だが、先生。俺がいなければ、先生の首はありませんよ」と答えました。
さすがの勝も「あれには俺も一言もなかったよ」と回想録に残しています。

海舟の護衛について以後、以蔵もしばらく海軍修行に勤しむことになるのです。

文久3年3月頃になると、海舟門下にも土佐者が増えてきました。劇中の「勤王党分離作戦」のために「操練所塾生派遣」というシナリオはフィクション以前の問題です。

容堂と海舟は「海軍作り」という点で相通ずるものがあったからこその「航海術許可」でしょう。

「富国強兵策」をとろうとする「公儀」(「幕府」)に対し、「攘夷」を迫る朝廷。

「攘夷決行」期日の5月10日はもうそこまで来ていました・・・。