<龍馬を語ろう> 第24回 人物編 武市半平太(瑞山)

今回は土佐勤王党の首領・武市半平太(瑞山)(たけちはんぺいた:ずいざん)

<文政12年9月27日(1829年) 〜慶応元年閏5月11日(1865年)>を取り上げます。

半平太は号の瑞山という名でもよく知られており、大河ドラマの「龍馬伝」でも主要人物の1人として描かれています。

龍馬伝」では尊王攘夷一辺倒で、土佐の連中をまとめあげながらも悩みぬく青年として人物設定がなされていますが、実像はどうだったのでしょうか。

少し「半平太の実像」を追ってみましょう。

半平太は文政12年、「白札(しろふだ)」身分である武市家に生まれました。「白札」とは身分としては郷士下士なのですが、上士に準ずる扱いを受けた身分、いわば準上士の階級です。細かいことのようですが、半平太の行動を語る上で見逃すことの出来ない重要な背景の1つでしょう。

ところでそんな武市家に生まれた半平太の容姿はどのようなものだったのでしょうか。
色白で、容姿端麗。身長は2メートル近く、少し面長で坂本龍馬からは「アギ(あごが長いことをからかった土佐弁)」あだ名された、とされる・・・確かに半平太の残された肖像画をみると、なるほど納得です。

半平太は天保12(1841)年12歳の時に一刀流千頭伝四郎に入門して剣術を学んで以来、文久元(1861)年土佐勤王党を結成する32歳ごろまで、剣術の鍛錬に励む青年でした。この間、父母を失う、地震で自宅を失うなどの不幸もありましたが、半平太はその不幸をかき消すかのように、ますます剣の道に励んでいきました。半平太は、嘉永2(1849)年富子(とみこ)と結婚。半平太は側室を持たず、富子を生涯愛し続けたといいます。富子は後、半平太が獄へ下ると自分は夫と同様の生活を心がけ、冬は板の間に寝ていたようです。富子は大正6(1917)年88歳の天寿をまっとうします。

さて、剣の道にまい進する半平太は安政3(1856)年28歳の時、藩へ願い出、江戸へ旅立ち、江戸の3大道場のひとつに数えられた鏡心明智流(きょうしんめいちりゅう)の桃井春蔵(もものいしゅんぞう)の道場「士学館」(しがくかん)<他は北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)千葉周作(ちばしゅうさく)の「玄武館」(げんぶかん)と神道無念流(しんとうむねんりゅう)の斎藤弥九郎(さいとうやくろう)「練兵館」(れんぺいかん)>の塾頭になりました。当時この3大道場は「位は桃井。技は千葉。力は斎藤」と称されたほどの花形道場でした。途中祖母の死去により土佐への帰国を余儀なくされましたが、このころになると「剣術家」・武市半平太の名は土佐はもとより、江戸をはじめとする諸国に知れわたっていったのです。

万延元(1860)年桜田門外の変後、32歳の半平太は九州遊歴を皮切りに、よく文久元(1861)年諸国志士との交流をはじめます。「龍馬伝」の第9話で描かれた水戸の住谷寅之助、薩摩の樺山三円・さらに桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作との交流はこのころのこと。
半平太はこれら諸氏との連携・協力により藩主を押し立てて天皇のもと、京都で政治を行なおうとかんがえます。半平太は土佐を薩長に並び立つ有力な藩にすべく8月土佐勤王党を結成。「勤王」をスローガンに掲げます。しかし藩主を押し立てて、京都の政治を改革しようとする半平太に対し土佐国内の政治の充実・殖産興業を旨とする吉田東洋は、勤王党員が京都へ上ることを、徳川を刺激する原因になるとして良しとしません。若い連中が集まった勤王党は東洋攻撃を試みますが書画をたしなみ、国学を信奉する半平太は過激な手段をよしとせず押しとどめます。どちらが悪いということではありません。半平太は建白書を3度以上も送りますが事態はなかなか半平太たちの思うように動きません。半平太は反東洋派家老らの突き上げもあり、悩みぬいた末、東洋暗殺の過激な手段をとります。

文久2(1862)年4月8日、吉田東洋は そぼ降る雨の中、半平太の命を受けた勤王党員那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助に暗殺されました。吉田東洋享年46。それからの土佐勤王党は(表向きは)飛ぶ鳥を落とす勢いでした。同年朝廷は薩長に続いて土佐にも上京を命じました。それに伴い老公・山内容堂三条実美を奉じ上京しました。これでやっと半平太の念願が果たされました。半平太は京都で諸国志士との応接をする他藩応接役に任じられ、その職務に励む一方、弟子の岡田以蔵らに命じて「天誅」と称される暗殺行動を繰り返していました。これは天皇が政治を行なっている京都を混乱に陥れる者を「天」に変わって罰を与える、そんな意味がありました。

しかしそんな日々も長くは続きませんでした・・・。

文久3(1863)年京都の攘夷派を(京都から追い出す)薩摩と会津が画策したクーデターが起こりました。いわゆる「文久政変」です。この政変の余波は勤王党にも打撃を与えました。老公・山内容堂はこの期に乗じて土佐勤王党弾圧を始めました。吉田東洋暗殺に加え、下士たちが、京都で朝廷と結び徳川を困惑させることを快く思っていなかったのです。半平太の側近・平井収二郎中岡慎太郎の師・間崎滄浪を「主君に無断で朝廷と謀をした罪」で切腹に処しました。この事件をきっかけとして弾圧は激しさを増し元治元(1864)年9月半平太もとうとう牢屋入り。(半平太 36歳)服毒自殺するもの・拷問最中に死ぬものの断末魔の叫びは半平太の精神を確実に蝕んでいきました。実に獄中闘争1年9ヶ月におよび慶応元年閏5月11日山内容堂の命により3文字に腹を斬り、果てました。享年37歳。

半平太の死により土佐勤王党は崩壊。明治維新まであと3年でした。

半平太の親友・長州の久坂玄瑞の評価があります。

「土佐の武市半平太は真に国士の風あり」
「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」
「その熱誠、西郷の上にあり」

今回の「龍馬伝」では龍馬より少し「狭い」人物に描かれているような気がします。解釈は自由ですが半平太を極端な攘夷主義者・暗殺者には描いてほしくはない、半平太の趣向や論理をきちんと描いて深みを持たせてほしいものです。