第11回 人物編 島津久光

手元に一枚の写真がある。写真の主はどこかツン、と不機嫌な様子をしながらも意志の強さを感じさせる、そんな表情をしていて、どうも気になる人物。今回の主人公―島津久光その人である。

 「薩長二藩は龍虎の如し、風雲に遇えば勢測られず」

 という岩倉具視の評が残るほど(井上勲著『王政復古 』中公文庫、1991年。)幕末史における薩摩島津家の役回りは重要で、島津久光はその中でも主役級の人物だった。 
  

久光は文化14(1817)年、島津家当主・斉興(なりおき)の5男として生まれ、嘉永2(1849)年久光23歳の時、異母兄斉彬との間にお家騒動である「お遊羅騒動」がおき、敗れ去るが、斉彬との仲は頗る良く斉彬の死後、当主となった息子・忠義(ただよし) を補佐する「国父(こくふ)」=(当主の父)として力を発揮。桜田門外の変(1860=万延元年)後、兄・斉彬の遺志を継ぎ「公武合体」路線の幕政改革を推し進めた。 
  

政治の中心が京都へ移ると小松帯刀大久保利通などの人材を登用しつつ、過激尊攘派の内部抗争「寺田屋事件」の鎮圧、進行中の久光の行列を横切ったことに腹を立てた家来がイギリス人を殺傷した「生麦事件」(文久2=1862年)、それに端を発した「薩英戦争 」、長州過激攘夷派を京都から追放した「8・18政変」(ともに文久3=
 1863年)などの事件によって京都政局での名声を高めてゆく。

また久光は政局観の違いから西郷隆盛を嫌ったといわれているが、薩摩会津連合軍と長州攘夷派が京都で戦った「禁門の変」では西郷も久光の意を汲み、よく戦った。(元治元=1864年)。
 
 時は移って慶応3=1867年、将軍・徳川慶喜/久光/越前の隠居・松平春嶽/土佐の隠居・山内容堂/伊予宇和島の隠居・伊達宗城が京都に集まって国の政策を決める「参与会議」が開かれました。

この時の議題は年末に迫った兵庫開港 (時の孝明天皇が京都近くの兵庫を開港するのを嫌がったため難航していた) と禁門の変で無断で京都に上ってきた長州の処分(「長州問題」)のどちらを先に解決するかでした。会議は兵庫開港を優先すべしとする慶喜・春嶽・容堂と薩長盟約を結んだため長州問題を先に解決するべきと主張した久光とそれに同調した宗城の二派に分かれていたが、慶喜の強引な主張により会議は潰れてしまう。

冒頭の「不機嫌」な写真はこの時のもので慶喜の撮影。
 
 
 一般にこの時久光の「徳川家離れ」=(倒幕志向)を強くし、幕府との対立を決定づけたといわれているのだが、久光にいわせると「幕府との対決は西郷や大久保が独断で行なったことで自分は徳川との事は穏便に処理するよう命じた」のだそうである。

実際のところはどうであろうか?


  その後幕府が崩壊し明治の世となった時、久光はどうしていたのだろうか?

 維新政府の進める西洋化政策に不満を募らせていた久光は政府に多くの建白書を書き余生を過ごしていた。

他の地方の政府に不満を持つ者の多くからも久光のもとへ手紙が届くようになる。

 久光はそうした声の代弁者でもあった。

 政府は久光の不満を抑えるために明治6=1873年に内閣顧問に、翌明治7=1874年には左大臣に任官されるが、やはり政府の「西洋化」で意見が合わず、明治8=1875年官を辞し鹿児島へ帰藩。

 そして明治20(1887)年71歳でこの世を去る。国葬をもって送られたそうである。

 廃藩置県(明治4=1871年)の際、政府の急激な政策の断行と武士の時代の終焉を嘆いて一日中花火を打ち上げていたという。

久光が打ち上げた大きな花火は「政府への不満」という大玉だったのかもしれない・・・。