第9回 人物編 中岡慎太郎

中岡慎太郎、おっ!?その名前なら聞いたことがあるぞ、という方がいらっしゃるかもしれません。 そうです。坂本龍馬とともに「暗殺」された人物です。

 
 京都の丸山公園の坂本龍馬中岡慎太郎の2人が並んだ銅像をご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか?

 でも中岡慎太郎ってどんなことをした人?

 って聞かれるとちょっと?ひょっとして龍馬の「相棒」!?

 彼の経歴を少し追ってみましょう。

 中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は天保9(1838)年、土佐国(現在の高知県)北川村の大庄屋・中岡小伝次(こでんじ)の長男として生まれました。

 子どもの頃の慎太郎は文武両道の「時間に無駄のない」少年だったそうです。

 ある時慎太郎少年はいつものように漢籍を読みながら道を歩いていました。

 すると近所の悪ガキがいたずらを仕掛けようと牛の糞を塗りたくった縄を用意して、待ち構えていた慎太郎が引っかかれば糞まみれ・・・。が、慎太郎は縄の前で立ち止まり、「お主ら何をするぞ」と悪ガキどもを一括し平然と歩いていったということです。

 慎太郎の真面目さが伺えるエピソードです。そうかと思えば生家近くを流る奈半利(なはり)川から20mのダイビング(土佐弁でシュウビン)をし周囲の大人達をヒヤヒヤさせたようです。

 この話は「光次(こうじ=慎太郎の幼名)のシュウビン」として今でも語り継がれています。真面目一辺倒ではなく、慎太郎のお茶目さをも物語っているようです。

 飢饉の時の非常食用に村に柚子の木を植えるように進言したのも慎太郎でした。このような行動から周囲から「神童」と渾名されました。
 
 そんな慎太郎は、16歳の頃(後に土佐勤王党の首領と幹部になる)武市半平太(たけちはんぺいた)と間崎滄浪(まざきそうろう)からそれぞれ剣術と学問を学ぶことになり、やがて自らも土佐勤王党のメンバーとして入党、 「志士」としての活躍の第1歩を歩んでゆくことになるのです。

文久2年 (1862)慎太郎25歳のことでした。文久3年(1863)「8・18政変」で攘夷派が京都から一掃されると「攘夷」を標榜していた土佐勤王党は幕府を守ろうとしていた藩本庁と対立、壊滅の危機にさらされます。

(その後、土佐勤王党は慶応元年=1865崩壊。)

 身の危険を感じた慎太郎は長州(現在の山口県)に亡命。8・18政変で落ち延びた公家の秘書をやりながら長州系浪士として長州藩が京都に上り会津・薩摩連合軍と戦った「禁門の変」にも「忠勇隊」(ちゅうゆうたい)の隊長として参加、負傷しています。


 この頃(1865年)『時勢論』を著し徳川政権返上論を説いています。

同時に筑前福岡の同志とともに薩摩・長州の「和解」を画策します。

 これに坂本龍馬も一役買います。後の薩長盟約の原型です。

 薩長盟約の場に直接いられなかったものの、慎太郎の功績は大きなものがあります。坂本龍馬は「意見に差はあるが、中岡以外に事を謀れる者はいない」という意味の言葉を残しています。

 薩長盟約に尽力した慎太郎にはもうひとつの大仕事がありました。不和であった岩倉具視三条実美の和解です。

 公武合体派の岩倉と尊王攘夷派の三条、この二人を見事に和解させ倒幕勢力を結集させる一助をつくりました。

 慶応3年(1867)には土佐藩の実働部隊である「陸援隊」を組織。この時期にはすでに徳川政権返上論から「用兵論」へと動いていたのです。

慶応3年11月15日龍馬とともに襲われた時も政治論を戦わせていたといいます。

「積極的戦争は決して望まない。しかしいざという時武器も用いる覚悟を持っていなければ『変革』など無理だ」

 こんな気持ちでいたのかもしれません。龍馬は即死。慎太郎は翌々日17日に死去。享年30歳。

 「邑ある者は邑を投げ捨て、家財ある者は家財を投げ捨て、勇ある者は勇を振るい、智謀ある者は智謀を尽し、一技一芸あるものはその技芸を尽し、愚なる者は愚を尽し、公明正大、おのおの一死をもって至誠を尽し、しかるのち政教たつべく、武備充実、国威張るべく、信義は外国におよぶべきなり。」
 
 これは慎太郎書簡の一部です。慎太郎はこのような意識を持って常に活動していたのかもしれません。

 幕末最高級の「志士」の死でした。