<龍馬を語ろう> 第71回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第48話(最終話)・感想

龍馬伝」第48話(最終話)。「龍の魂」。お話の時期は慶応3(1867)年10〜11月15日。龍馬33歳。

48回続いた「龍馬伝」もいよいよ最終回! 慶応3年10月13日、龍馬は京都「近江屋」(井口新助宅)で「大政奉還」の一報を受け取ります(10月15日、大政奉還上奏に勅許が下る)。この「大政奉還」で政権を朝廷に返上した慶喜は(とりあえず)日本の内乱を避け、また慶喜自身も来るべき「新政権」でも相応の地位を占める可能性が生まれていました。慶喜から政権を「返上」された朝廷は戸惑います。政務を行なえる機構・人材が整っておらず「政務」は「徳川家」(将軍家ではない)に預けられました。大政奉還後の政治機構を整えるためにも、<王政復古>・「新政府の樹立」が急がれました。

龍馬は大政奉還直後のこの時期、三条実美家来・戸田雅楽に「新官制擬定書」(新政権の職制・人事案のようなもの)を起草させています。龍馬を象徴するエピソードに「世界の海援隊」と呼ばれるものがあります。<大政奉還後龍馬は新政府の大綱である「新官制擬定書」を作成した。これには関白を三条実美慶喜を副関白とし、参議として薩の西郷・大久保・小松帯刀、長の木戸孝允、土佐の後藤の名があったが、龍馬の名はどこにもなかった。怪訝に思った西郷がこれについて問うと、龍馬は「ワシは堅苦しい役人などしません。左様さ…世界の海援隊でもやりましょうかな」と一言残しただけだった・・・> なんとも爽快なエピソードですが、この「新官制擬定書」は原本が存在せず、5種類のヴァージョンが存在しそのうちの3種類に「坂本」と記されていることから「世界の海援隊」は後世の創作だということがわかります。

・ 「新官制擬定書」
           関白  一人。
 公卿中尤徳望智識兼修ノ者ヲ以テ、之ニ充ツ。
 上一人ヲ輔弼シ万機ヲ関白シ、大政ヲ総裁ス。(暗ニ公ヲ以テ之ニ擬ス)
議奏  若干人。
 親王公卿諸侯ノ尤モ徳望智識アル者ヲ以テ、之ニ充ツ。
 万機ヲ献替シ、大政ヲ議定敷奏シ、兼テ諸官ノ長ヲ分掌ス。(暗ニ島津、毛利、山内、伊達宗城、鍋島、春嶽諸侯及、岩倉、東久世、嵯峨、中山ノ諸卿ヲ以テ之ニ擬ス)
参議  若干人。
 公卿、諸侯、大夫、士庶人ヲ以テ、之ニ充ツ。大政ニ参与シ兼テ諸官ノ次官ヲ分掌ス。
 (暗ニ小松、西郷、大久保、木戸、後藤、福岡、(坂本)三岡八郎、横井平四郎、長岡良之助等ヲ以テ之ニ擬ス)
大政奉還後の龍馬は正規の土佐山内家家臣として動きながら、土佐の下士からは(やっかみもあり)その動きを理解されていない―という複雑な立場にあったようです。10月17日、薩摩の吉井幸輔に近江屋からの退去、(それができないのであれば)龍馬が薩摩屋敷へ移ることをすすめられています(西郷・大久保・小松3者は大政奉還後の会津松平家の襲撃を恐れ京都を去っています)。吉井の京都退去勧告もその動きに基づいてのものでした。龍馬は吉井の申し出を断ります。今や龍馬は正規の土佐山内家家臣、京都薩摩屋敷へ移るのはいかにもばつが悪い、しかし上士の多い土佐屋敷へ移るのも気がひける・・・そこで龍馬は10月18日友人の望月清平に転居先の周旋を依頼した手紙を書き、複雑な心境を吐露しています。

慶応3年10月18日付望月清平 宛 龍馬書簡 原文
拝啓
然ニ小弟宿の事、
色〻たずね候得ども
何分無之候所、昨夜
藩邸吉井幸輔
より、こと伝在之候ニ、
未屋鋪ニ入事あた
ハざるよし。四條ポン
ト町位ニ居てハ、用心
あしく候。其故ハ此三十
日計後ト、幕吏ら龍馬
の京ニ入りしと謬
伝して、邸江もたず
ね来りし。されバ二本
松薩邸ニ早〻入候よふ
との事なり。小弟思ふ
ニ、御国表の不都合の上、
又、小弟さへ屋鋪ニハ
入ルあたハず。又、二本松
邸ニ身をひそめ候ハ、
実ニいやミで候得バ、
萬一の時も存之候時ハ、
主従共ニ此所ニ一戦の
上、屋鋪ニ引取申べし
と決心仕居申候。又、
思ふニ、大兄ハ昨日も小弟
宿の事、御聞合被下
候彼御屋鋪の辺の寺、
松山下陳を、樋口
真吉ニニ周旋致
させ候よふ御セ話被下
候得バ、実ニ大幸
の事ニ候。上件ハ
唯、大兄計ニ内〻申上候
事なれバ、余の論を
以て、樋口真吉及
其他の吏〻ニも御
御申聞被成候時ハ、猶
幸の事ニ候。不一
 宜敷 頓首/\/\
 十八日    龍馬
望月清平様    龍
     机下

10月24日、龍馬は岡本健三郎とともに福井へ旅立ちます。10月28日、福井着。旧知の      村田巳三郎と面談しています。10月30日、三岡八郎(のちの由利公正)に面談。三岡は蟄居中だったのですが、旅館「烟草屋(たばこや)」で来るべき「新政権」の財政問題について議論しています。龍馬はこの三岡を新政権の財政官僚としてスカウトしています。

この時の龍馬との会談の模様を三岡はのちに

「烟草屋(たばこや)へ入って龍馬と呼んだら、ヤー話すことが山程あるという。その顔を見るとすぐに天下のこと(大政奉還)は成就と思われた。自分は罪人であるから立会いの役人を連れて来たと断れば、おれも同様の付人がおる。健三来いよと呼ぶ。 これは土佐の目付の下役で岡本健三郎という人だ、共に聞けよとの事で、土佐越前の役人を左右に置き、坂本と私と両人は炬燵に入って、徳川政権返上の次第、朝廷の事情等、具さに聞いた」
と回想しています。龍馬の「福井行き」については史料によってまちまちで(越前松平家の当主 松平茂昭に拝謁したとするものなどあります 老公・春嶽は京都へ向かっており不在)よくわかりません。しかし龍馬が春嶽の席に座るのは少しばかりやりすぎではないでしょうか。
龍馬が京都に戻って来たのは11月5日。この前後龍馬は「新政府綱領八策」を起草します。この「新政府綱領八策」は龍馬の自筆として残っており、他の史料との混乱を避けるために、単に「八義」と呼ばれることもあります。

「新政府綱領八策(八義)」 原文
第一義
 天下有名ノ人材ヲ招致シ 顧問ニ供フ
第二義
 有材ノ諸侯ヲ撰用シ
 朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ 現今有名
 無實ノ官ヲ除ク
第三義
 外国ノ交際ヲ議定ス
第四義
 律令ヲ撰シ 新ニ無窮ノ
 大典ヲ定ム 律令既ニ定レバ
 諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下
 ヲ率ス
第五義
 上下議政所
第六義
 海陸軍局
第七義
 親兵
第八義
 皇国今日ノ金銀物価ヲ
 外国ト平均ス
右預メ二三ノ明眼士ト議定
シ 諸侯會盟ノ日ヲ待ッテ云々
○○○自ラ盟主ト為リ 此ヲ以テ
朝廷ニ奉リ 始テ天下萬民ニ
公布云々 強抗非礼公議ニ
違フ者ハ断然征討ス 權
門貴族モ貸借スルヿナシ
 慶應丁卯十一月 坂本直柔

簡略化された文章ですが龍馬が新政権を運営するに当たって重要だと考えていた事柄が端的に現われています。「綱領八策」の後半部「右預メ二三ノ明眼士ト議定シ 諸侯會盟ノ日ヲ待ッテ云々」

2.3人の有志とよくよく話し合いをし事を諮って諸侯を召集した会議を開く・・・とでも訳せるでしょうか。「○○○自ラ盟主ト為リ・・・」ここがポイントです。この「○○○」には誰が入るのか。龍馬自身は慶喜を想定していたかもしれませんが、誰を入れるか、まだ決まっておらずこれからの京都政局を見つめながら考えよう、まずはいろいろな勢力に諮ろう、くらいの気持ちだったかもしれません。この「綱領八策」をめぐって西郷・大久保・小松・木戸・中岡が疑心暗鬼になることはまずありえません!

11月10日龍馬は「北海道開拓」の夢に触れた手紙を備後広島の林謙三に書き送ります。北海道開拓は神戸海軍操練所以来の龍馬の夢でした。

翌11月11日 大政奉還後の混迷した政治の諸問題を片付け新政権の樹立を速やかに行なうため、龍馬は徳川家の若年寄格・永井尚志(ながいなおゆき)と面会し慶喜の心情を探り出しています。この日龍馬は再び林謙三に書き送り、そのなかで龍馬は永井を「ヒタ同心」、息のあった同志と評し新政権樹立の基礎固めが終われば「シユラか極楽かに御供可申奉存候」 地獄か極楽にお供しますよ―といっています。自らの運命を予見したかのような文面です。


・慶応3年11月11日付 林謙三 宛 龍馬書簡 原文

十日御認の御書、十一日ニ相
達拝見仕候。段〻の御思召
能相わかり申候。そが中ニも
蝦夷の一条は別して
兼而存込の事故、元より
御同意仕候。別紙二通此
度愛進ニさし送り申候間、
内〻御一覧の上、其上を封じ
御送り可被成、然レバ愛進
より何ぞ申出候べしと奉存候。
其上御考可被成、私儀も
ひまを得候へバ下坂可仕、
外に用向も在之候。
○扨、今朝永井玄蕃方
ニ参り色〻談じ候所、天下
の事ハ危共、御気の毒とも
言葉に尽し不被申候。
大兄御事も今しバらく
命を御大事ニ被成度、
実ハ可為の時ハ今ニて
御座候。やがて方向を
定め、シユラか極楽か
に御供可申奉存候。謹言。
 十一月十一日
             龍馬
  追白、彼玄蕃ヿハヒタ同心
  ニて候、再拝〻。

そして慶応3年11月15日 龍馬は午前中、福岡藤次を2度訪ねています。夕方中岡慎太郎が龍馬のもとへやって来ました。前年9月に起きた「三条制札事件」で新選組に捕らえられていた元土佐上士の宮川助五郎 の身柄を海援隊が引き取るか?陸援隊が引き取るか?ということを話し合うためだったといわれています。(中岡隊長の陸援隊が結成されたのが慶応3年7月。)

 しばらくすると、土佐の岡本健三郎と書店「菊屋」の倅・峰吉が龍馬と中岡の2人を訪ねてきました。4人はしばらくの間雑談。龍馬は空腹を覚え峰吉に軍鶏を買ってくるよう頼み。岡本も「軍鶏をつつこう」と誘われましたたが用事があるとして峰吉とともに近江屋を出ました。
刺客が近江屋に侵入したのは、2人の出立から間もなくのことでした・・・。

「近江屋」表で来客を告げる声があり、藤吉が応対に出ると、男が1 人立っておりその男は名刺を差し出し、「拙者は十津川の者だが、坂本先生が御在宿ならば御意を得たい」と告げました。藤吉は名刺を受け取り、2階の龍馬のもとへ届けるため、階段を上がっていきましたが、その隙に3人の刺客が侵入し、藤吉を尾行した刺客の1人が、無言のまま抜き打ちに斬りつけた。藤吉は抵抗しようとしたが、さらに背後から数太刀を浴びせられ、その場に倒れてしまいました。

この騒ぎを聞いた龍馬は異変を感じ取りましたが、刀を取る余裕もないまま 刺客の1人中岡の後頭部を斬撃。もう1人は、龍馬の前額部を横に払いました。
龍馬は、後ろの床の間に置いていた陸奥吉行を取ろうと身をひねりましたが、さらに右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られてしまいました。

 それでも刀を掴んで立ち上がろうとする龍馬。容赦なく刺客の三の太刀が襲いますが、鞘のままかろうじて受け止ます。なおも敵の斬撃は凄まじく、鞘越し 3寸程龍馬の刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を深く薙ぎ払らいました。
 脳漿が吹き出すほどの重傷を受けた龍馬は、石川(中岡の変名)、刀 はないか、刀はないか」と叫びながら、その場に崩れてゆきます。

中岡も刀を屏風の後に置いたので、それを取る間もなく短刀を取りますが、これを抜く隙もなく、鞘のまま応戦だが、敵は巧みに寄せつけず、中岡は左右の手と両足とを斬られ、気絶。
刺客は念のため、2度ほど中岡の腰を背骨に達するまで深く斬りつけ、その死を確かめてから、「もうよい、もうよい」と言って立ち去りました。中岡は、この二太刀受けた痛みで蘇生したが、死を装ってやり過ごします。

 しばらくして、龍馬が正気を取り戻します。刀を抜いて行灯の火に照らし、頭部の傷を確認しながら。中岡の方をかえりみて、「石川手は利くか」と尋ねました。中岡は、「利く」と答えたといいます。

 龍馬は次の6畳間へはって進み、階段口から家人に医者を求めるも、その声に力はなかった。そして、かすかな声で、「おれは脳をやられた。もういかん」と言い、うつぶせたまま絶命。

龍馬享年33 下僕藤吉享年25 事件後2日間生き延びた中岡は享年30。 

龍馬らを殺害したのは京都見廻組 佐々木唯三郎とその配下の者たちでした。

龍馬は「寺田屋事件」において役人2人を殺害しており京都所司代守護職は龍馬を危険人物と認識していました。そのために「殺害」されたのです。龍馬暗殺薩摩説・土佐説などは根拠がなく事実無根といっていいでしょう。

龍馬と中岡はおそらく死の間際には綱領八策「○○○」の話はしていないでしょう。

岩崎弥太郎は見廻組と面識もないはずです! 龍馬暗殺をメインテーマにしたいのでしょうが近藤勇VS中岡など無理なシーンが多いような気がしました。せっかくの最終回なのに・・・ 肝心の暗殺シーンも今井信郎の刀が龍馬の喉もとに刺さる時のカメラの微妙な動きが気になりました。

さて1年間「龍馬伝」を観てきましたが武市半平太久坂玄瑞木戸孝允・西郷吉之助・大久保一蔵・小松帯刀のキャラクターには共感できませんでした。薩摩の人物や慶喜たちが悪役のような描かれ方をしたのは非常に残念でした。時間軸の説明もおざなりでまちがっていたこともありこれも残念でした。岩崎弥太郎を準主役で扱った割には彼の臨終のシーンが後味が悪かった!これで「龍馬伝」HPにある「新しい龍馬像・幕末像」 「龍の魂」が描けたとでもいうのでしょうか。