<龍馬を語ろう> 第70回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第47話・感想

龍馬伝」第47話。「大政奉還」。お話の時期は慶応3(1867)年10月。龍馬33歳。

先の慶応3年9月18日に薩摩・長州・芸州(広島)3家連合の京都出兵盟約が締結されたことにより、土佐山内家は独自に「政権返上(大政奉還)」建白運動を行なうことになりました。ここで注目しなければならないのは、「薩土盟約」という形が「破棄」されただけで薩摩と土佐の関係がこじれたというわけではないということです。土佐は徳川慶喜に「政権返上」を強く勧める 薩摩の京都出張組(西郷ら)は慶喜に政権返上を迫るために「兵を用いる(出兵)」する―互いの邪魔はせず、「盟約」に縛られない行動をしよう―土佐と薩摩の間ではこのような意識がありました。方法こそ違えど、薩摩も土佐も目指すところは新国家の形成―<王政復古>でした。後藤象二郎が土佐の「大政奉還」建白を薩摩に通知し、小松帯刀の了承を得たのが10月2日。(時を同じくして乾退助が兵を率い京都へ向かっています)翌10月3日後藤象二郎・福岡藤次が「大政奉還建白書」を老中・板倉 勝静に提出します。さらに翌10月4日には寺村左膳・神山左多衛が大政奉還建白書の写しを公家二条斉敬へ提出。10月6日には芸州浅野家からも徳川家に「大政奉還建白書」が提出されています。

ところで大政奉還の前後、龍馬はどのように動いていたのでしょうか。

土佐が大政奉還の建白書を徳川家に提出する前々日の10月1日、龍馬は土佐・須崎を出航しようとしますが悪天候のため、5日ばかり日を費やしてしまいます。10月8日にようやく土佐帆船・空蝉で兵庫に入港。10月9日に上京。旅館・酢屋へ宿泊しています。また、この頃後藤象二郎に「銀座移転計画」を述べています。徳川家の銀を鋳造する「銀座」の機能を移転してしまえば徳川の財政権を奪うことになり「大政奉還」が受け入れられやすくなると考えたのです。10月13日龍馬は酢屋から近江屋に移ります。

慶応3年10月13日 徳川慶喜各大名家の代表者を京都へ招集 後藤象二郎は山内家代表として慶喜の求めに応じます。政権返上がなるか否か―この劇的な日に龍馬は後藤に激励の手紙を書き送っています。

・慶応3年10月13日付 後藤象二郎宛 龍馬書簡 原文

御相談被遣候建白之儀、万一行ハれざれば固
より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海
援隊一手を以て大樹参内の道路
ニ待受、社稷の為、不戴天の讐を報じ、
事の成否ニ論なく、先生ニ地下ニ御面
会仕候。○草案中ニ一切政刑を挙て
朝廷ニ帰還し云〻、此一句他日幕府よりの
謝表中ニ万一遺漏有之歟、或ハ此一句
之前後を交錯し、政刑を帰還
するの実行を阻障せしむるか、従来
上件ハ鎌倉已来武門ニ帰せる大権を
解かしむる之重事なれバ、幕府
に於てハいかにも難断の儀なり。是
故に営中の儀論の目的唯此一欸已(のみ)
耳(に)あり。万一先生一身失策の為に
天下の大機会を失せバ、其罪天地ニ
容るべからず。果して然らバ小弟亦
薩長二藩の督責を免れず。豈いた
徒ニ天地の間に立べけんや。
            誠恐誠懼
  十月十三日       龍馬
 後藤先生
     左右

龍馬の後藤への期待があふれ出ているような手紙です。手紙を書いているとうの龍馬も興奮したのでしょう。近年になりこの手紙の書き損じが発見されています。

慶応3年10月13日 徳川慶喜は政権を朝廷に返上しました。内乱を避け新国家を形成しようと熟考した結果だといわれます。政権を朝廷に返上したことで来るべき新政権において慶喜も要職を占める可能性もありました。 今回の「龍馬伝」では後藤象二郎慶喜に強く大政奉還を勧めていましたが慶喜大政奉還を強く勧め、(慶喜の行為)を「大英断」と讃えたのは薩摩の小松帯刀でした。後藤は慶喜の問いかけにただ平伏するばかりであったそうです。

大政奉還上表文 

慶喜謹テ皇国時運ノ沿革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解キ、相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受ク。臣其職奉スト雖モ、政形当ヲ失フコト少カラス。今日ノ形勢ニ至リ候モ、畢竟薄徳ノ致ス所、慙懼ニ堪ヘス候。況ヤ当今、外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出申サス候テハ、綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト並立ツヘク候。臣慶喜国家ニ尽ス所是ニ過キスト存シ奉リ候。去リ乍ラ猶見込ノ儀モ之有リ候得ハ、申シ聞クヘキ旨、諸侯江相達シ置候。之ニ依テ此段謹テ奏聞仕候。以上。

同じく「倒幕の密勅」なるものが下されます。これは慶喜を打つ命令書だといわれてきましたが近年では島津家内の京都「出兵反対派」の声を封じるための奥の手だとも言われています。
・ 倒幕の密勅

詔す。源慶喜、累世の威を籍り、闔族の強を恃み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑に擠し顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕、今、民の父母として、この賊にして討たずんば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇を顧みざるは、万止むべからざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山獄の安きに措くべし。此れ朕の願、敢へて懈ることなかれ

激しい文言ですが反対派に「出兵」を納得させるためにはこれくらいの荒療治が必要だったのかもしれません。

現に大政奉還後の10月21日倒幕見合わせ沙汰書が下され密勅は無効になっています。

龍馬は大政奉還の報を聞き「今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」と涙を流したといいますが・・・。

大政奉還の報を待つ龍馬のもとに勝海舟が現われますがフィクションです。

龍馬が「新政府綱領八策」(「八義」)なる文書をまとめるのは11月の暗殺直前のこと。

西郷・大久保・小松・木戸が「敵役」の様に扱われるのは哀しいですね・・・。

次回、最終回 龍の魂が燃え上がるのでしょうか・・・。