<龍馬を語ろう> 第69回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第46話・感想



龍馬伝」第46話。「土佐の大勝負」。お話の時期は慶応3(1867)年9月。龍馬33歳。

龍馬が(木戸貫治と密に連絡を取り合いながら)山内家を薩摩・長州と並び立つ勢力にするため、小銃千挺を長崎で購入し土佐へとやって来たのは慶応3年9月23日のことでした。

翌9月24日、龍馬は家土佐山内家臣の渡辺弥久馬に長州薩摩2家の京都政局における状況を伝える手紙を書き、渡辺に面会を求めます。

・ 慶応3年9月24日付 渡辺弥久馬宛 龍馬書簡 原文

渡辺先生   左右

一筆啓上仕候。

然ニ此度云々の念在之、手銃一千挺芸州蒸汽船に積込候て、浦戸に相廻申候。参がけ下ノ関に立より申候所、京師の急報在之候所、中々さしせまり候勢、一変動在之候も、今月末より来月初のよふ相聞へ申候。二十六日頃は薩州の兵は二大隊上京、其節長州人数も上坂 是も三大隊斗かとも被存候。 との約定相成申候。小弟下ノ関居の日、薩大久保一蔵長ニ使者ニ来り、同国の蒸汽船を以て本国に帰り申候。御国の勢はいかに御座候や。又後藤参政はいかゞに候や。 京師の周旋くち下関にてうけたまわり実に苦心に御座候。 乾氏はいかゞに候や。早々拝顔の上、万情申述度、一刻を争て奉急報候。謹言。

  九月廿四日                          坂本龍馬

薩摩(と長州は)京都に兵を送り始めている。わが土佐は如何にするつもりか、後藤象二郎や乾(後の板垣退助)は(京都の様子を見据えながら)動いているか?我が山内家も一刻もはやく京都へ兵を送るべきである―と薩摩・長州の情報を記しながら山内家の京都出兵を強く促しています。

昔の「長薩土」の勢いを取り戻し、山内家を毛利・島津並び立つ勢力にしたい龍馬としては山内家の京都出兵は当然の願いだったでしょう。

9月25日、龍馬は渡辺弥久馬に面会し、土佐の小銃購入と土佐の方針について議論をしています。小銃購入と山内家出兵問題は当然、渡辺だけでは結論を出すわけにはゆかず、9月

27日には・容堂をはじめ家老・近習・奉行などが出席する重役会議が開かれました。

龍馬はこの頃(山内家が)薩摩・長州に後れを取らないためには2家と歩調を合わせることが必要であり、そのためには京都出兵は不可欠。土佐は独自に「大政奉還」を推し進め(それが将軍・徳川慶喜に受け入れられた後で)新しい国の形を作る「王政復古」)と考えていました。ですから新しい国づくり(「王政復古」)の過程である「大政奉還」は龍馬にとって失敗は許されませんでした。

結局、9月27日のこの会議で龍馬が土佐へ持ち込んだ小銃千挺は山内家により買い上げられることが決定し、翌9月28日龍馬は小銃運搬の功を認められ、山内家の首脳部より50両を下賜されています。同じく9月28日戸田雅楽をつれて約五年ぶりに坂本家へ帰り、当日と翌日に同志やその家族たちの訪問をうけました。権平・乙女・元土佐勤王党員の大石弥太郎らとほんのひと時ですが、楽しい瞬間を過ごしました。(岩崎家との宴会はフィクションでしょう。)これが龍馬自身最後の帰郷になろうとは思いもよらぬことだったでしょう。

また兄・権平との会話にあったように、龍馬の継母伊与は慶応元(1865)年10月21日に62歳で亡くなっています。「40歳」で龍馬が坂本家に戻ってくることが兄・権平の願いだったようですが久々の帰郷で話題になったかどうか?です。

今回の「龍馬伝」のテーマである「土佐の大政奉還論」について― この土佐山内家の「政権返上」(大政奉還運動)は慶応3年6月17日に土佐の方針として決定されています。8月20には大政奉還運動は後藤象二郎・寺村左膳に全権委任されています。何よりも大政奉還山内容堂が巣の推進者でした。龍馬伝大政奉還否定論者のような容堂は存在しません。そして龍馬と容堂は1度も面識がありません! これが今回で1番大きなフィクションです。(身分と格式を丁寧に描いて欲しかった・・・。)大政奉還建白はむしろ後藤象二郎の「大勝負」でした。

慶応3年初頭に(龍馬と)後藤象二郎が手を組んだことを姉乙女に「奸物役人」に騙されていると非難されると「中にも後藤ハ実ニ 同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニハあるまいと存候」と答えています(慶応3年 6月24日 乙女 おやべ宛 龍馬書簡 抜粋)

龍馬は同志後藤象二郎と手を携え「大政奉還」・「王政復古」へと尽力してゆくのです。

しかし龍馬に許された時間は長くはありませんでした・・・。