<龍馬を語ろう> 第68回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第45話・感想



龍馬伝」第45話。「龍馬の休日」。お話の時期は慶応3(1867)年9月。龍馬33歳。

9月3日、「イカルス号事件」を無事解決した龍馬は土佐山内家の「政権返上」運動の準備を本格的に始めます。

9月14日、龍馬たち海援隊は土佐へ供給するためのライフル銃千三百挺をハットマンから購入しています。「政権返上」論を推し進めるための(土佐山内家への)武器の供給―一見、矛盾したような行動に見えますが龍馬はこの時何を考えていたのでしょうか。

「薩土盟約」や土佐の「政権返上運動」(大政奉還)・新しい国家の形を模索した「王政復古」など龍馬の「国事周旋」の奔走した根底には「昔日の長薩土とな」ることへの「相楽ミ」―期待(慶応3年2月16日付 三吉慎蔵宛 龍馬書簡を編集)がありました。京都政局で毛利・島津・山内家がそれぞれが国事に奔走していた文久期の頃の様に(薩摩/長州に並び立つほどの)土佐の威厳を取り戻したい―そのためには武力兵乱をも辞さない「政権返上」(大政奉還運動)を行なうべきである―これが龍馬の慶応3年9月時点での考えであったと思われます。

9月18日、龍馬は岡内俊太郎・戸田雅楽千屋寅之助らと震天丸に乗船し、長崎を出帆。

9月20日、龍馬は下関に立ち寄り伊藤俊輔に面会。薩摩長州と土佐の現段階における関係性について話が及んだものと思われます。

<薩摩と土佐は「薩土盟約」を締結したものの、国許の山内容堂が京都への出兵を「無用」と答えたので(「薩土盟約」には島津家・山内家の京都での「出兵」を前提に締結されたものでした)山内家中がまとまらず9月9日薩摩幹部から「薩土盟約」の破棄が申し入れられました。もっともこの破棄によって薩摩(長州)土佐の関係が険悪になったということではなく「盟約」という「形」が消えただけのことでした。>

そのような状況を把握した上で龍馬は長州の木戸にライフル銃千三百挺を用意し土佐も着々と(京都兵乱を視野に入れた)「大芝居」に向けて準備しているという書簡を認めます。

・慶応3年9月20日付 木戸貫治宛 龍馬書簡 原文 

一筆啓上仕候。

然ニ先日の御書中

大芝居の一件、

兼而存居候所と

や、実におもしろく

能相わかり申候間、

弥憤発可仕奉存候。

其後於長崎も、

上国の事種々

心にかゝり候内、少〻

存付候旨も在之候

より、私し一身の存付ニ而

手銃一千廷買求、

芸州蒸気船を

かり入、本国ニつみ廻

さんと今日下の関

まで参候所、不計も

伊藤兄上国より

御かへり被成、御目かゝり

候て、薩土及云云、且

大久保が使者ニ来り

し事迄承り申候

より、急々本国を

すくわん事を欲

し、此所ニ止り拝顔

を希ふにひまな

く、残念出帆仕候

小弟思ふに是より

かへり乾退助ニ

引合置キ、夫より

上国に出候て、後藤

庄次郎を国に

かへすか、又は長崎

へ出すかに可仕と

存申候」先生の方

ニハ御やくし申上候時勢

云云の認もの御出来

に相成居申候ハんと

奉存候。其上此頃

の上国の論は先生

に御直ニうかゞい候得バ、

はたして小弟の

愚論と同一かとも

奉存候得ども、

何共筆には

尽かね申候。彼是

の所を以、心中

御察可被遣候。猶

後日の時を期し

候。誠恐謹言。

   九月廿日

                龍馬

 木圭先生

     左右

「急々本国をすくわん事を欲し」 木戸へふと告げた龍馬の「故郷・土佐」への想いだったのではないでしょうか。

今回の「龍馬伝」で描いているストーリーのように龍馬が木戸・大久保から理解を得られなくなり「孤立」してゆくかのような描写はあり得ません。龍馬も木戸も西郷・大久保・小松も目指していたことは同じで新国家の形成―「王政復古」でした。さらに当時、島津家中で京都での「武力兵乱反対派」が多くを占めていたこと(つまり西郷や大久保は少数派)ということも考え合わせるべきでしょう。

先にも述べたとおり、この9月20日下関に立ち寄りお龍に再開しています。<下関で三吉慎蔵の息子米熊(万延元(1860)年生まれでこの当時8歳)がお龍と遊んでいる場面が出てきたのは面白く感じました>

今回の「龍馬の休日」=「視聴者への休日」?ではないかと思うほどのストーリーでしたが、ともかくも龍馬は9月20日から9月22日の2日間下関に滞在しています。悲しくもこれが龍馬とお龍の永遠の別れとなりました。龍馬は9月22日「大政奉還建白」のため土佐へ向けて旅立ちました・・・ 故郷・土佐を薩摩・長州に並び立たせるために・・・。