<龍馬を語ろう> 第67回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第44話・感想



龍馬伝」第44話。「雨の逃亡者」。お話の時期は慶応3(1867)年6月〜9月。龍馬33歳。 

「薩土盟約」締結直後の慶応3年6月23日、龍馬は京都の会々堂で中岡慎太郎および土佐の家臣佐々木三四郎・毛利荒次郎と面談。土佐山内家が方針として進める政権返上論―大政奉還論の案文について議論をしています。

2日後の6月25日龍馬は中岡慎太郎に伴われ、洛北岩倉村に閉居中の岩倉具視を訪ねます。岩倉は朝廷権威の回復/海外貿易論などを主張している開明的公家でしたが文久元(1861)年「和宮降嫁」に携わったことにより、他の公家の不審を買い翌2年より閉居。しかし閉居中にも緒家の人物たちと交流。独自の人脈を築き新しい政治体制「王政復古」を模索していました。中岡慎太郎が龍馬を岩倉に紹介したのは龍馬にとっても岩倉が有益な人物であると中岡が判断したからではないでしょうか。

7月4日龍馬は海援隊文士・長岡謙吉とともに京都から大坂へくだります。5日、大坂着。龍馬が大坂に滞在していたちょうどその頃―慶応3年7月6日長崎の路上でイギリス軍艦・「イカルス号」の水夫/ロバートフォードと大工/ジョンハッチングスが何者かに殺害されるという事件―世にいう「イカルス号事件」が起こりました。ロバートフォードとジョンハッチングスの2人を殺害した犯人 福岡黒田家家来・金子才吉は酔いつぶれ眠っている2人に斬りつけその場から逃亡。山中を放浪した後、自刃して果てました。事件より2日後、7月8日のことでした。事件の目撃者の(2人を殺害した犯人は)「白木綿の筒袖に襠高袴(まちだかばかま)をはい」ていたという証言から当時事件現場近くの料亭「花月」で宴を催していた海援隊士・佐々木栄にその疑いがかけられました。(イギリス公使・パークスは水夫殺害事件の一報を受けると直ちに犯人捕縛を長崎奉行に申し立てますが、パークスは長崎奉行には捕縛能力がないとみるや7月24日、大阪で老中・板倉勝静と談判。パークスはそのまま土佐に向かいます)

水夫殺害事件が龍馬の耳に届いたのは事件発生から8日後の7月14日のことでした。

この水夫殺害事件の処理を担当したのが土佐商会の岩崎弥太郎でした。弥太郎は五代才助より事件の概要を聞き7月19日、パークスに面談。弥太郎はパークスに土佐側の無罪を主張。同じく7月19日夜弥太郎は長崎奉行の詮議を受けます。長崎奉行は水夫殺害時長崎の港に停泊していた土佐の帆船「横笛」の取調べ/乗組員の出頭を命じます。

弥太郎は長崎奉行の命に従い「横笛」の出頭命令を海援隊に通達しますが7月21日土佐帆船「横笛」は突如として長崎の港を出帆してしまうのです。

ところで龍馬はこの頃どのような動きをしていたのでしょうか。7月5日下坂以降の龍馬の足取りを追ってみましょう。7月9日薩摩の同志・黒田了介・永山弥一郎に面談。7月20日には京都へ戻り、7月25日西郷吉之助と面談し太極丸水夫による殺人事件の対処方について訊ねています。龍馬はイカルス号問題の解決と政権返上論の準備を同時に推し進めなければなりませんでした。7月27日龍馬は福岡藤次と共に伊予宇和島老公・伊達宗城に拝謁しています。拝謁の理由は土佐の政権返上論の理解を伊達家へ得るためだったと思われます。7月29日龍馬は、越前老公・松平春嶽から、土佐老公・山内容堂へ宛てた、パークスとの面談つつがなく行なうよう記した手紙を届けるため、土佐へむかう上士・佐々木三四郎を追い京都より大坂へ下ります。8月1日龍馬は佐々木三四郎を追いかけ、三邦丸に乗船し、三邦丸船内で佐々木と会談しますが、話し込んでいるうちに三邦丸が出帆してしまい龍馬もそのまま土佐へ向かいます。8月2日龍馬は土佐の港・須崎にやって来ますが、山内家内の事情を鑑み土佐帆船「夕顔丸」内に潜むことになります。(パークスは8月8日長崎へ向かい「イカルス号問題」の舞台は長崎に移ります)。8月13日龍馬は佐々木三四郎・岡内俊太郎らと共に夕顔丸で長崎へ出帆。8月14日龍馬は下関に立ち寄り、8月15日長崎へ。16日と18日に佐々木をはじめ松井周助・由比畦三郎・森田晋三・千屋寅之助・中島作太郎・渡辺剛八ら土佐家臣・海援隊士とともに「イカルス号問題」について議論をしています。8月20日龍馬は料亭玉川にて佐々木に長州の木戸を紹介しています。これには土佐の政権返上論について木戸の理解を得ようとの龍馬・佐々木の目論見があったように思われます。このように周辺の理解を得ながら龍馬は土佐の「政権奉還論」を推し進めていったのです。8月30日龍馬は佐々木とキリシタンを利用した「武力兵乱」について話し合っています。9月3日龍馬は松井周助と共に西役所で佐々木栄・渡辺剛八・橋本久太夫らの取り調べに立ち会いました。この審議により海援隊は水夫殺害には無関係とされ「無罪」との判決が下りました。事件解決直後の9月14日海援隊は土佐へ供給するためのライフル銃千三百挺をハットマンから購入しています。

今回の「龍馬伝」 「雨の逃亡者」は「イカルス号事件」にお元の行く末を無理やり絡めた気がしました。織田毅さんの『海援隊秘記』(戎光祥出版、2010年。)によるとお元は明治4年頃まで芸妓をつとめていたようです。キリシタンであった可能性はなく「龍馬伝」での設定―おそらくフィクションではないでしょうか。お元がキリシタンだったという設定は佐々木の日記にある龍馬が語ったとされる文言「此度の事若し成らずば、耶蘇教(キリシタン)を以て人心を煽動し、幕府を倒さん」―出典 佐々木日記『保古飛呂比』にアイディアを得たものでしょう。もっともこの日龍馬も佐々木もずいぶん酒に酔っていたようで酒の席の戯言で龍馬のこの発言が出たのかもしれませんが・・・。 

また朝比奈 昌広は慶応3年当時長崎奉行ではありませんでした。(慶応2年まで)沢村惣之丞長崎奉行所で取調べをうけたというのもフィクションでしょう。とにもかくにもこのイカルス事件の解決後、本格的に武力兵乱をも視野に入れた「政権返上」運動にまい進してゆくのです・・・。