<龍馬を語ろう> 第64回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第41話・感想



龍馬伝」第41話。「さらば高杉晋作」。お話の時期は慶応3(1867)年1月〜4月。龍馬33歳。

今回は「海援隊結成」と龍馬と高杉晋作の「別れ」がメインテーマでした。慶応3(1867)年初旬、後藤象二郎との会談を終えた龍馬は正式に「脱藩罪」を赦され、改めて土佐山内家家臣としての活動を行なうことになりました。後藤象二郎や土佐首脳部は龍馬や中岡慎太郎と協力体制を築き、さらに龍馬・慎太郎2者の尽力により土佐を薩摩・長州の勢力に滑り込ませようと目論んでいました。龍馬は慶応3年1月20日頃土佐の上士で攘夷強硬派の龍馬と後藤象二郎の関係を不信に思った谷守部と面談。後藤象二郎と龍馬は丁寧に谷を説得。すっかり谷も龍馬・後藤の大きな支えになりました。2月初頭、龍馬は「高坂龍次郎」の変名を使い会津松平家神保修理と面談しています。神保修理会津松平家の秀才で、慶応の頃、長崎へ遊学。伊藤博文大隈重信ら西国の士と多く交わり見聞を広めます。のちに鳥羽伏見戦争の戦端が開かれると前将軍徳川慶喜と前会津松平家当主・松平容保に恭順するように進言。これにより慶喜・容保は大阪城を脱出しますがこの神保の行動が会津家臣の不審を買い神保は監禁の上切腹させられてしまいました。享年34.神保と親交のあった勝海舟は神保の死を嘆き悲しんだといいます。龍馬は神保の印象を「長崎にて会津の家老神保修理に面会。会津にはおもいがけぬ人物にてありたり」と手帳に書き記しています。

2月10日にはお龍をつれ下関の伊藤九三邸「自然堂」(龍馬の居宅)へ帰っています。

2月14日、龍馬は鳥取池田家の同志・河田左久馬に蝦夷地開拓について相談しています。この頃の龍馬は本気で北海道の開拓を考えていたようです。

3月20日薩摩の大山格之助と面談。22日には三吉慎蔵に「近時新聞」と題した手紙を記し、ここ数日の情報をまとめて報告しています。

 

近時新聞

○薩州大山格之助廿日関

 ニ来ル。則面会。此人築

 前ニ渡リ本国ニ帰ル。其

 筑前ニ渡る故ハ此度、

 朝廷より三条卿を初メ

 五卿を御帰京の事被

 仰出候よし、此儀ニ依而の

 事なり。

○先日井上聞太が京師

 より下りし時の船ニて、西郷

 吉ハ帰国致セし。此故ハ

 薩侯御上京の儀を

 以て下りし。

○此頃幕ニも大ニおれ合、

 薩州にこび候事甚しく、

 然レども将軍ハよ程の憤

 発にて、平常に異り候

 事共おゝく、ゆだん不成

 と申合候。

○薩の周旋此頃よ程行ハレ、

 先ニ御引込ニ相成候、廿四卿の御

 寃罪も相解ケ、築前の

 三条卿ハ御帰京の上ハ、

 天子の御補佐とならさせられ

 候よし、此儀ハ小松、西郷など

 決して見込ある事のよし。

 然レバ先ヅ天下の大幸とも

 いうべきか、可楽〻。

○此頃将軍ハ海軍を大ニ

 ひらかんとて、米国へ大軍艦

 一艘船人ともに借入候よし。

 五ケ年ニて八十万金程費と

 申事のよし。幕、原一之進

 が咄し致し候よし。

  以上五条

   二月廿二日 認    龍馬

    慎蔵先生

        足下

2月中・龍馬は中岡慎太郎とともに土佐上士・福岡藤次より脱藩罪赦免の報を受けました。

3月6日、龍馬は印藤聿にあて思いつくまま筆をとり、蝦夷地開拓・いろは丸にふれた手紙を書いています。

3月20日中岡慎太郎の訪問を受け京都政局の変化を聞いています。「龍馬伝」では中岡慎太郎は武力蜂起論を宣言していますが、中岡自身が慶応2年に「時勢論」という著作で徳川公儀の「政権返上論」の可能性と意義を説いています。武力蜂起論と政権返上論は単純な対立関係ではなかったということを付け加えておきます。

4月某日、龍馬は「海援隊」の隊長に任命されます。(人数は50人ほど)

海援隊の設立に関わった福岡藤次は(のち誕生させる陸援隊と合わせて)「翔天隊」という組織をつくりあげる構想を持っていたようです。「海援隊」はいうなれば土佐の外部組織でした。福岡藤次・龍馬が提示した「海援隊約規」という規則があり、その史料からは長崎における「土佐総合機関」とでもいうべき性格が浮かび上がります。

海援隊約規

海援隊約規

  凡嘗テ本藩(土佐)ヲ脱スル者及佗(他)藩ヲ脱スル者、海外ノ志アル者此隊

  ニ入ル。

  運輸、射利、開柘(拓)、投機、本藩ノ応援ヲ為スヲ以テ主トス。

  今後自他ニ論ナク其志ニ従ッテ撰入之。

  凡隊中ノ事一切隊長ノ処分ニ任ス。敢テ或ハ違背スル勿レ。

  若暴乱事ヲ破リ妄謬害ヲ引ニ至テハ隊長其死活ヲ制スルモ亦許ス。

  凡隊中忠難相救ヒ困厄相護リ、義気相責メ条理相糺シ、若クワ独断果激、儕

  輩ノ妨ヲ成シ、若クハ儕輩相推シ乗勢テ他人ノ妨を為ス、是尤慎ム可キ所敢

  テ或犯ス勿レ。

  凡隊中修業分課ハ政法、火技、航海、汽機、語学等の如キ其志ニ随テ執

  之。

  互ニ相勉励敢テ或ハ懈ルコト勿レ。

  凡隊中所費ノ銭糧其の自営ノ功に取ル。亦互ニ相分配シ私スル所アル

  勿レ。

  若挙事用度不足、或ハ学科欠乏を致ストキハ隊長建議シ、出崎官ノ給弁

  ヲ竢ツ。

   右五則ノ海援隊約規、交法簡易、何ゾ繁砕ヲ得ン。モト是翔天ノ鶴其ノ飛

   ブ所ニ任ス。豈樊中ノ物ナランヤ。今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト言ハン。

   亦究意此ノ意ヲ失スル勿レ。

      皇慶応三丁卯四月

4月8日、伊予大洲より借り受けた「いろは丸」が長崎に入港。このいろは丸が龍馬たちを風雲の中へといざなってゆくのです・・・。

4月13日 高杉晋作が死去。高杉は慶応元年初夏頃より体調を崩し翌年9月には大量に喀血し次第に隊長を悪化させ、慶応3年の初頭には詩作も出来ない病状を嘆いています。慶応3年の4月10日にはすでに意識の混濁が見られ13日夜中に死去。享年29

「面白きこともなき世に面白く」生きた男の激動の生涯でした。

龍馬は晋作を評して「当時[慶応二年]天下の人物と云うは[中略]長州にて[中略]高杉晋作。この人は軍事に預かる、この人、下関に出、小倉攻めの総大将」であると賛辞を送っています。

龍馬伝」では浪に飲み込まれながら最期を迎える高杉晋作にびっくり(!) もちろんフィクションだろうとは思いますが・・・

政権返上派の龍馬VS武力蜂起派の木戸孝允 龍馬を指示する高杉晋作という大政奉還押し&妙な構図もやはり気になりますが・・・うーん??

さまざまな人々の想いをいろは丸に乗せて福山竜馬は旅立つのでした・・・。