<龍馬を語ろう> 第63回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第40話・感想



龍馬伝」第40話。「清風亭の対決」。お話の時期は慶応2(1866)年7月〜翌慶応3(1867)年1月。龍馬32〜33歳。

第2次長州戦争(=四境戦争―小倉口の戦い)参加の功績により、龍馬は慶応2年6月25日に山口で長州毛利家当主の敬親に拝謁。敬親より羅紗生地などを拝領し、7月3日まで滞在。その後、山口の小郡から下関に向かいます。7月4日には龍馬は下関に到着。龍馬が下関に立ち寄った慶応2年の7月頃、幕末の政治史は第2次長州戦争を巡って大きく動こうとしていました。7月7日には土佐の後藤象二郎が老公・山内容堂により薩摩の情勢視察/長崎出張を命じられジョン万次郎と出立しています。山内容堂は土佐を開明路線の国にしようと「開成館」なる学問所の建設を計画していました。その「開成館」の建設計画の手始めに容堂は後藤象二郎に薩摩視察を命じたのです。この命には以前、勤王党を断罪したことにより山内家内に敵を多くつくってしまった後藤の身の安全を図るという意味もあったようです。7月19日〜20日には「薩長盟約」の条項、

「戦いと相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事」により薩摩兵第1陣が京都へ到着。7月20日には長州毛利家当主敬親・定広父子より武家伝奏へ長州戦争を寛大に終結させて欲しい旨の建白書が提出されます。薩摩長州両家が長州戦争にそれぞれの動きをみせていた同日の7月20日大坂城で第14代将軍・徳川家茂が21歳の若さで病死します。これによりしばらく「将軍空位」の状態が生まれます。一方、龍馬は7月25日、木戸貫治に宛てて手紙を書き、龍馬が長崎で得た徳川軍の情報を木戸に報じています。龍馬はこの頃、財政の窮乏から亀山社中の「解散」を考えていたようです。7月28日に三吉慎蔵に宛てた手紙にこうあります。

・ 慶応2年7月28日付 三吉慎蔵宛 龍馬書簡 原文

何も別ニ申上事

なし。然ニ私共長崎

へ帰りたれバ又のりかへ

候船ハ出来ず水夫

らに泣/\いとま出し

たれバ、皆泣/\に立チ

出るも在り、いつ迄も死

共に致さんと申者も在

候。内チ外に出候もの両

三人計ナリ。おゝかたの人数ハ死まで

何の地迄も同行と

申出で候て、又こまり

いりながら国につれ帰り申候。

幕の方よりハ大ニ目

おつけ、又長崎でも

我々共ハ一戦争と存候

うち、又幕史ら金

出しなどして、私水夫

おつり出し候勢も

あり候得共、中〻た

のもしきもの計ニて

出行ものなし」今

御藩海軍を開キ

候得バ、此人数をうつ

したれバと存候」

今朝伊予の大洲

より屋鋪にかけ合

がきて、水夫両三人、

蒸気方三人計も

当時の所、拝借とて

私し人数を屋鋪より五大才助

が頼にてさし出し候」

○木圭氏に手紙○

○わ長崎の近時のよふを承り記したり。

を送りけるが、是ハ

極内〻を以て御覧(ラン)被成候得バ、

極テたしかなるたより

にて山口に迄御送被成

   慎蔵大人       龍

  右七月廿八日

 

龍馬は本気で解散を考えてもいたようですが、薩摩の五代才助を通じて伊予・大洲藩から社中へ乗組員借用の依頼があり、龍馬は応じています。伊予大洲藩も「近代化」の道を歩み始めていたのです。これで亀山社中大洲藩との関わりが出来ました。やがて龍馬たちは「いろは丸」という名の船を借用することになるのです。8月13日、亀山社中でともに活動していた小曽根英四郎が公儀に密偵の容疑をかけられ捕縛されてしまいます。

龍馬は8月16日まで小曽根英四郎を助けるために奔走しています。

さらに8月の下旬には、龍馬は越前藩士下山尚をたずね面談し越前老公・松平春嶽に政権返上=大政奉還を推進するよう懇願しています。龍馬が具体的に大政奉還を説いたのはこの時が始めてではないでしょうか。その後も龍馬たち亀山社中は薩摩からの給金を受けながらなんとか生計を立てていました。

10月22日にはプロシア商人・チョルチ―と商談し「太極丸」を受け取っています(22〜28日まで)。「太極丸」は手に入れたものの経営に苦しむ龍馬と社中に手を差し伸べようとした人物がいました。溝淵広之丞です。後藤象二郎が老公・容堂の命を受け長崎でやってきたのを機に、溝渕は龍馬たち亀山社中の情報をことあるごとに後藤象二郎の耳にいれたようです。

溝渕は長州の木戸準一郎にも面会し、第2次長州戦争後の政局の変化に敏感に反応したと思われます。これからは薩摩・長州・土佐が団結してことにあたらなければならないと思いを強くしたことでしょう。ちなみに龍馬は溝渕今後のために、と銃器の購入を依頼しています。

(12月5日、 徳川慶喜 第15代将軍宣下を受ける)

12月25日、伊予大洲の国島六左衛門が独断で「いろは丸」を購入したものの資金不足を問われたため切腹。龍馬は国島の遺体にすがりつき泣いた、といわれます。

(同日 孝明天皇崩御

明けて慶応3年正月5日、龍馬は下関に中岡慎太郎を尋ね京都の情勢について夜を徹して語り明かしています。6日、中岡慎太郎から得た情報を三吉慎蔵に伝えるために伊藤九三・森玄道らの同志に急使を送っています。

龍馬は下関から長崎に向かい後藤象二郎との会談に臨みます。世にいう「清風亭会談」ですが詳細はわかっていないようです。芸妓お元は龍馬の傍らにいたのでしょうか。昨今の薩長の情勢、これからの政局で土佐の取るべき立場、龍馬と土佐が協力体制を築くべきであること等々様々なことが話し合われたのではないでしょうか。龍馬後藤会談の緊迫したシーンで弥太郎が控えているのは「おーい竜馬」の影響でしょうか。亀山社中長崎奉行に荒らされるのは史料が少ない時期(おそらく9月頃)を狙ったフィクションではないでしょうか。今回も時間軸がぶれているような気がしました。重要なエピソードをすっ飛ばして突然長崎に現われた龍馬。少し不思議な気がしました。