<龍馬を語ろう> 第61回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第39話・感想

龍馬伝」第39話。「馬関の奇跡」。今回から第4部「FINAL SEASON RYOMA THE HOPE」に突入。お話の時期は慶応2(1866)年6月〜7月。龍馬32歳。

明治16(1883)年 岩崎邸―。「土陽新聞」掲載の坂崎紫瀾作、『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)<明治16年より連載開始>の「出来」について岩崎弥太郎が、坂崎紫瀾に不満をぶつける(憤慨?)するシーンから今回のお話は始まります。それに臆することなく弥太郎に取材を続ける坂崎紫瀾。

<明治16(1883)年時 岩崎弥太郎 50歳 坂崎紫瀾 31歳>

『汗血千里駒』での龍馬の描き方を巡って議論を続けている弥太郎と坂崎のもとへグラヴァーが現われます。グラヴァー商会の経営は明治元(1868)年頃には傾き始め、同3(1870)年には倒産し多額の負債を抱えます(明治10<1877>年返済終える)。しかし、明治14(1881)年には幕末期から交流のあった弥太郎との縁により、弥太郎が経営していた「三菱」の顧問になります。 <明治16(1883)年時 グラヴァー 44歳>。

母・美和の取り成しもあり弥太郎は再び龍馬の「物語」を語り始めました― 手に「海峡の激戦」の記事をしっかりと握り締めながら・・・。

6月7日 徳川家と長州の戦争(長州戦争or幕長戦争)が始まりました。長州が重要視していた4つの方角<大島口・芸州口・小倉口・石州口>で戦争が行なわれたので「四境戦争」とも呼ばれます。 龍馬も6月14日の小倉口の戦闘に参加。

「長州戦争」の経緯を簡単に記すと、

大島口での戦闘は、一時大島が幕府軍に奪われるも長州兵・高杉晋作の夜襲作戦により奪還。
芸州口での戦闘は、長州VS幕府&紀州の戦い 幕府・紀州藩側が押し気味ながらも膠着状況に。

石州口での戦闘は、村田蔵六大村益次郎)軍VS松平武聰の戦い が中立的立場を取った津和野藩を通過して徳川慶喜実弟・松平武聰が藩主であった浜田藩へ侵攻し、18日に浜田城を陥落。

龍馬も参加した小倉口の戦闘は、高杉晋作山県有朋軍VS老中格小笠原長行の戦い

関門海峡を挟んで数度おこなわれ、長州と肥後の力が拮抗。龍馬もユニオン号を率いて参加しました。 7月20日、第14代将軍・徳川家茂死去の報が入ると小笠原は小倉城を焼き戦線を離脱。

小笠原が戦線を離脱したことにより、長州の「四境戦争」での勝利は決定的なものになりました。慶応2(1866)年8月1日のことです。

龍馬は「小倉口での戦い」の感想を、石州口の戦いに参加した土佐の上田宗児(うえだ そうじ)の活躍も記しながら家族に述べています。

・ 慶応2年12月4日付 家族宛龍馬書簡 原文

(中略)

一、七月頃、蒸気船 桜嶋といふふね を以て薩州より長州江使者ニ行候時被頼候而、無拠長州の軍鑑を引て戦争セしに是ハ何之心配もなく、誠ニ面白き事にてありし。一、惣而咄しと実ハ相違すれ共、軍ハ別而然り。 是紙筆ニ指上ゲ候而も、実と不被成かも不知、一度やつて見たる人なれば咄しが出来る。
七月以後戦ひ止時なかりしが、とふ/\十月四日と成り長州より攻取し土地ハ小倉江渡し、以後長州ニ敵すべからざるを盟ひ、夫より地面を改めしに、六万石斗ありしよし。
右戦争中一度大戦争がありしに長州方五拾人計打死いたし候時 軍にて味方五十人も死と申時、敵方;合セておびたゞしき死人也。 先き手しバ/\敗セしに、高杉普作ハ本陣より錦之手のぼりにて下知し、薩州の使者村田新八と色〻咄しなどいたしへた/\笑ながら気を付て居る。敵ハ肥後の兵などにて強かりけれバ、普作下知して酒樽を数〻かき出して、戦場ニて是を開かせなどしてしきりに戦ハセ、とふ/\敵を打破り肥後の陣幕旗印抔不残分取りいたしたり。私共兼而ハ戦場と申セバ人夥しく死する物と思ひしに、人の拾人と死する程之戦なれバ、余程手強き軍が出来る事に候。
一、水通三丁目に居し上田宗虎防主、池蔵太について大和に行しが、此頃長州ニて南奇隊参謀に成て芸州之戦に幕兵之野台場を攻たりしに、中〻幕兵強くして破れ難し。上田、士卒に下知して進ミ兎角して砲台之外よりかき上り内に飛入しに、内ハまた外なる敵に向ひ数玉など打て盛なりしに、上田も士卒に下知するうち、幕之大炮号令官と行逢、刀を抜間もなくて組合しに敵方ハ破れぎハなり、つゞく兵ハなく宗虎方にハ部下之銃卒壱人馳セ来り、ケベールを以て打殺セしに組討にてたをれたる処なれバ、敵をバ打殺しつれども、宗虎がうでを打抜たり。宗虎ハ敵をバ追払ひ其台場をも乗り取り、自身ハ手をいためし計り之事にて、此頃名高き高名、中〻花〻敷事と皆〻浦山敷がり申候。此事ついて只、宗虎が親類江御咄し被成候得バ、喜び可申存候。
龍馬の生涯ただ1度の「海戦」の興奮が伝わってくるかのような手紙です。

また、龍馬は6月25日、山口で藩主毛利敬親に拝謁、羅紗生地などを拝領し、7月3日まで滞在しています。

「四境戦争」後、木戸孝允大政奉還「論」を龍馬に教え、木戸がそれを強く否定するようなシーンがありましたが、大政奉還論が浮上してくるのが翌慶応3年10月頃ですし、龍馬は大政奉還直前、土佐に供給しています。

龍馬は大久保一翁松平春嶽などの「大政奉還論者」と親交がありました。したがって「大政奉還」の言葉を知らないはずがありません。

木戸にしても頭ごなしに「大政奉還」を否定するということはないでしょう。

弥太郎が「土佐商会」の責任者として長崎へやってくるのも慶応3年4月頃のことです。

どこまでも「平和主義者」1本の龍馬で行きたいのでしょうか?