<龍馬を語ろう> 第60回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第38話・感想

龍馬伝」第38話。「霧島の誓い」。お話の時期は慶応2(1866)年3月〜6月頃。龍馬32歳。

慶応2(1866)年3月1日、龍馬・お龍たちは伏見から大坂に下りそこから薩摩へ向かいます。(中岡慎太郎や三吉慎蔵も途中まで同行)その目的は寺田屋で負った傷を癒すためでした。3月4日、龍馬たちは薩摩の帆船・三邦丸に乗り込み、5日には大坂を出航。6日、三邦丸は下関に立ち寄り中岡と三吉はここで下船しました。薩長盟約の成果を長州や公家に伝えるためだったのではないでしょうか。8日、龍馬を乗せた三邦丸は長崎に立ち寄り、1月24日に割腹して果てた近藤長次郎の墓参りをしたといわれています。幼馴染で、神戸海軍操練所・亀山社中以来の仲間を失った龍馬の胸に去来した想いはどのようなものだったのでしょうか。

3月10日、三邦丸は鹿児島に入りました。16日にはお龍とともに、日当山温泉に、17日には塩浸温泉に浸かり、と湯治を繰り返しています。28日には、同じく塩浸温泉に、湯治中の薩摩家老・小松帯刀を尋ね交流しています。そして同日、龍馬とお龍は霧島山に登ります。

龍馬はこの霧島登山がよほど愉しかったらしく姉・乙女に宛てて長文の手紙を書き、霧島登山の様子をイラスト入りでレポートしています。龍馬の手紙のなかでも名作のひとつです。

・ 慶応2年12月4日付 乙女宛龍馬書簡 原文

(中略)
是より三日大坂ニ下り、四日に蒸気船ニ両人共ニのり込ミ、長崎ニ九日ニ来り十日ニ鹿児島ニ至リ、此時京留居吉井幸助もどふ/\ニて、船中ものがたりもありしより、又温泉ニともにあそバんとて、吉井がさそいにて又両りづれにて霧島山(キリシマヤマ)の方へ行道にて日当山(ヒナタヤマ)の温泉ニ止マリ、又しおひたしと云温泉に行。此所ハもお大隅の国ニて和気清麻呂がいおりおむすびし所、蔭見の滝(インケンノタキ)其滝の布ハ五十間も落て、中程にハ少しもさわりなし。実此世の外かとおもわれ候ほどのめづらしき所ナリ。此所に十日計も止りあそび、谷川の流にてうおゝつり、短筒(ピストヲル)をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし。是より又山深く入りてきりしまの温泉に行、此所より又山上ニのぼり、あまのさかほを見んとて、妻と両人づれニてはる/″\のぼりしニ、立花氏の西遊記ほどニハなけれども、どふも道ひどく、女の足ニハむつかしかりけれども、とふ/\馬のせこへまでよぢのぼり、此所にひとやすみして、又はる/″\とのぼり、ついにいたゞきにのぼり、かの天(アマ)のさかほこを見たり。其形ハ
是ハたしかに天狗の面ナリ。両方共ニ其顔がつくり付てある。からかね也。

まむきに見た所也。

やれ/\とこしおたゝいて、はるバるのぼりしニ、かよふなるおもいもよらぬ天狗の面があり(げにおかしきかおつきにて)、大ニ二人りが笑たり。此所に来れバ実ニ高山なれバ目のとゞくだけハ見へ渡り、おもしろかりけれども何分四月でハまださむく、風ハ吹ものから、そろ/\とくだりしなり。なる程きり島つゝじが一面(メン)にはへて実つくり立し如くきれいなり。其山の大形ハ、

此サカホコハ少シうごかして見たれバ


よくうごくものなり又
あまりにも両方へはなが高く
候まゝ両人が両方よりはなおさへて
ヱイヤと引ぬき候時ハわずか
四五尺斗のものニて候間又〻本の通り
おさめたり
サカホコ
あらがねにてこしらへたものなり
此所ニきり島ツヽジヲビタヾシクアル
此穴ハ火山のあとなり渡り三町斗アリ
すり鉢の如く下お見るニ
おそろしきよふなり
 イ 此間ハ山坂焼石斗
   男子でものぼりかねるほどきじなることたとへなし
   やけ土さら/\すこしなきそうになる
   五丁ものぼれバはきものがきれる
 ロ 
 ハ 此間彼ノ馬のせごへなり
   なるほど左右目のをよバぬほど下がかすんでおる
   あまりあぶなく手おひき行く
 ニ 此間ハ大きニ心やすくすべりてもおちる所なし

霧島山より下り、きり島の社にまいりしが是は実大きなる杉の木があり、宮もものふり極とふとかりし。其所ニて一宿、夫より霧島の温泉の所ニ至ルニ、吉井幸助もまちており、とも/″\にかへり、四月十二日ニ鹿児島ニかへりたり。(略)

龍馬伝」での「歯がゆさ」はどこへやら(笑)・・・というかあの描写はもちろんフィクションでしょうが・・・ 「霧島登山」をおもいっきり愉しんでいる龍馬の様子が伝わってきます。

吉井幸輔の息子・幸蔵が登場しました。幸蔵は薩摩での龍馬を記憶しており、龍馬が幸蔵の頭を撫でながら、「親父より出来がいい」と言ったことやある時、龍馬とお龍が喧嘩をし、龍馬がお龍に向かって「もういいよ。お龍さん、仲直りしよう」と言ってぽろぽろ涙を流して謝ったエピソードなどを後年回想しています。(幸蔵が龍馬について霧島山に登ったかどうか?ですが・・・)

龍馬の桐島での旅は「日本初の新婚旅行」といわれてきました。しかし近年の研究で龍馬が新婚旅行を行なう10年前の安政3(1856)年に小松帯刀が妻のお近と霧島の栄之尾温泉に湯治旅行した記録が発見されたため、「龍馬の日本初新婚旅行」説は見直しが図られています。

約1ヶ月間薩摩で羽を伸ばした龍馬。しかし龍馬には哀しい出来事が待ち受けていました。

弟のように可愛がっていた池 内蔵太の死―5月2日「ワイルウェフ号難破」です。

内蔵太は龍馬に命ぜられ、社中で新しく購入した船ワイルウェフ号の命名式を執り行うことになりました。しかしワイルウェフ号は内蔵太の指揮のもと、長崎から鹿児島へ向かっている最中の5月2日暴風雨に巻き込まれ五島列島塩屋崎沖で沈没。内蔵太は割腹しワイルウェフ号とともに、海の藻屑と消えました。享年馬は慶応2(1866)年12月4日付の家族に宛てた手紙のなかで、
「こゝにあはれなるハ池蔵太ニ而候。九度之戦場ニ出ていつも人数を引て戦ひしに、一度も弾丸に中らず仕合せよかりしが、一度私共之求しユニヲン(ワイルウェフの誤記)と申西洋形の船に乗り、難に逢、五嶋の志ハざきにて乱板し五月二日之暁天に死たり。人間一生実ニ猶夢の如しと疑ふ。杉山えも此事御咄し被成度、元より其死たる岡にハ印あり。
右之内生残る者四人と云。」

と内蔵太の死を嘆き悲しんでいます。

内蔵太には土佐に残してきた妻と子がいました。したがってお元へのプロポーズはあり得ません。

6月7日 第2次長州戦争が始まりました。

西郷・小松の「倒幕論」VS「龍馬」の構図なんてありえません! 「平和主義者??」龍馬・・・もう限界じゃないでしょうか。6月14日には「どふぞ野次馬させてはくれまいか」と龍馬も高杉晋作とともに長州戦争に参加することになるのですから・・・。

ラストシーンは龍馬の写真撮影でした。おそらくあの有名な立ち姿をモチーフにしたものでしょう。

今回で第3部終了! 次回は第2次長州戦争の激戦が描かれるのでしょうか。