<龍馬を語ろう> 第57回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第35話・感想



龍馬伝」第35話。「薩長同盟ぜよ」。お話の時期は慶応2(1866)年1月。龍馬32歳。

いよいよ薩摩と長州が手を握る―「薩長盟約」が結ばれる時がやってきました。木戸貫治(きどかんじ 公儀の嫌疑を逃れるため、慶応元<1865>年9月26日に桂小五郎より改名)が高杉晋作の説得や老公・毛利敬親の命を受けて、同志の黒田了助、品川弥二郎、三好軍太郎、田中顕助を伴い京都の薩摩屋敷に入ったのが慶応2年1月8日のこと。

龍馬も薩長の盟約のため一刻も早く京都へと入りたかったのでしょうが、前年の12月より「桜島丸条約」の事後処理や天候不順のために木戸より上京が遅れてしまいます。

慶応2年1月1日、下関に滞在していた龍馬は以前から親交のあった長府藩士・印藤聿(いんどうのぶる)より槍の名手である三吉慎蔵を紹介されます。長府藩から京都の「事情探索」の命を受けた三吉慎蔵は龍馬に同行します。下関・長府藩は清末・徳山・岩国の3家とともに長州の「4支藩」(分家)の一つでした。幕末期の長府藩は本家の萩藩と必ずしも関係が良好というわけではありませんでした。しかし薩摩と長州の提携のためには何よりもまず長州全体の意思統一が必要でした。龍馬が薩長盟約以前の多くの時間を下関で過ごしたのには萩・長府両家の意思統一を図るという隠された目的があったからかもしれません。龍馬の薩長盟約に対する活動には高杉晋作も大いに期待しており晋作は龍馬に1篇の詩とピストルを与えたといわれています。

三吉慎蔵に亀山社中の池 内蔵太と新宮馬之助を加え、馬関を発ったのが1月10日。

1月17日には大坂に着き、翌18日には三吉慎蔵と連れ立って、何と幕臣大久保一翁のもとを訪れます。

龍馬は一翁から京・大坂周辺で、龍馬への探索が厳しく行なわれており、身辺の警護をくれぐれも怠らないように、との忠告を受けています。龍馬がこのタイミングで大久保を訪れたのは、大久保から幕府の情報を聞き出そうとしたためかもしれません。

1月18日に龍馬たちは大坂の薩摩屋敷に入り、薩摩家臣としてしばらく行動することになります。19日、伏見の寺田屋に着。20日、三吉の安全を図るため、三吉を寺田屋に残し、

池 内蔵太と新宮馬之助を引き連れ京都薩摩屋敷に向かいます。

龍馬はこの1月20日に池 内蔵太の家族に宛てて「不思議な手紙」を書いています。

原文

池御一同

杉御一同

 先日大坂ニい申候時ハ、誠に久しぶりにかぜ引もふし薬六ふく計ものみたれバ、ゆへなくなをり申候。夫が京に参り居候所、又〻昨夜よりねつありて今夜ねられ不申、ふとあとさきおもいめぐらし候うち、私し出足のせつは皆々様ニも誠に御きづかいかけ候計と存じ、此ごろハ杉やのをばあさんハどのよふニなされてをるろふとも思ひ定而、池のをなんハいもばたけをいのししがほりかへしたよふな、あとも先もなき議論(ギロン)を、あねなどとこふじより、あせたしいうさるほねおりばなし、よめもともどもつバのみこみ、きくみゝたらずとふたつのみゝほぜくりあけてぞ、きかるべしなん。ある老人論じていう、女というものハ人にもよるけれど、高のしれたをんなめ、かの坂本のをとめとやら、わるたくみをしそふなやつ、あまり/\たらわぬちゑでいらざる事までろんじよると、すこしでもものしる人になれなれしくしたく、そふするうちになにとなく女の別もただしからぬよふニなりやすいものじゃ。なにぞききたくなると、男の方へたずねありくよふになり、かふいうとそのやミタ、思ひあたる人があるろふ。かの女れつじよでんなど見ると、誠に男女の別というものハたゞしい。男の心ニハ女よりハべして女がこひしい事もあるが、あの年わかい蔵太の玉のよふなるをよめごを、なにぞふるきわらぢのよふ思ひきりて、他国へでるも天下の為と思へバこそ、議理となさけハ引にひかれず、又〻こんども海軍(カイグン)の修行、海軍のというハおふけなおふねをのりまはし、砲をうつたり、人きりたり、それハ/\おそろしい義理というものあれバこそ、ひとりのをやをうちにをき、玉のよふなる妻ふりすて、ひきのよふなるあかごのできたに、夫さへ見ずとおけいとハ、いさましかりける次第なり、かしこ。

   正月廿日                     龍

 杉 御一同

 池 御一同

     あねにも御見せ。

実はこの1月20日の池 内蔵太の家族宛の不思議な手紙は薩長盟約直前の興奮した心情を伝える手紙なのです

?「又〻昨夜よりねつありて今夜ねられ不申」と風邪を引いて(歴史的会談を前に興奮して?)眠れないこと

?「私し出足のせつは皆々様ニも誠に御きづかいかけ候計と存」と「脱藩」を初めて、「謝罪」している、

ということです。

今は詳しく言えないけれど・・・話せる時がきたら俺が何をやったのか詳しく話すからね!とでも言いたげな龍馬の「熱気」が伝わってくるかのような手紙です。

この手紙を書いた後龍馬は「薩長盟約締結」の場へと向かいます。

ところが龍馬が薩摩屋敷へたどり着くと、まだ薩長盟約は締結しておらず驚愕した龍馬が木戸に事情を聴くと、「薩摩は盟約のことを何も言い出さない 朝敵である長州から盟約の話を切り出すわけにはいかない」といいます。木戸の言い分を聴いた龍馬は西郷を説得し

ようやく薩長盟約がなりました。

これは有名な薩長盟約の名場面です。この場面は、後年の木戸の回想録によるものです。

実は、薩長盟約については不明な部分が多いのです。

まず1月8日に薩摩藩邸に入った木戸は龍馬と出会う10日以上もの間何をしていたのか。

ドラマなどでは「馳走攻め」で盟約の話が全く進まなかった、というふうに描かれることが多いのですが、実は西郷が木戸に「幕府からの処分を受けよ」といい、木戸が西郷の申し出を拒否すると言う状態がずっと続いていたようです。

西郷が木戸に幕府の「処分」受けいるよう進言していたその頃―徳川家は慶応元年に続き長州の「征討」を行なおうと考えていました。薩摩首脳部は幕府が征討軍を出す前に長州が幕府の「処分」である領地削減と当主隠居に応じてしまえば長州が「征討」されることはないだろうからその処分を受けよと説得を試みていたようです。

木戸は西郷の申し出をずっと拒否していたようです。処分受け入れの提案は長州の非を受け入れたことになります。この秘密のやり取りは回想録で触れるべき性格のものではなかったのでしょう。

さらには薩長盟約がいつ締結されたのか? 10数年前「薩長盟約 龍馬不在」説が話題を呼んだことがあります。

この説の根拠は薩長盟約にも関わった桂 久武(かつら ひさたけ)の日記にある「国事段々噺相候事」という文言だそうです。この「国事」が薩長盟約のことだというのです。

さらに桂久武の日記に「坂本龍馬」の名前がないので「龍馬は盟約」の場に不在だったというのです。

18日〜21日頃まで龍馬は体調を崩していました。 また「国事段々噺相候事」とは予備交渉のことだと考えられ、「国事段々噺相候事」=龍馬不在の根拠にはならないでしょう。

薩長盟約の話し合いの場はやがて小松帯刀邸に移り、21日には龍馬も姿を現したようです。 

22日は木戸らを囲んで送別会が開かれ(桂 久武は風邪のため欠席。)翌23日木戸は長州へ帰っていきました。

このことから21〜22の間に薩長盟約の本格的話し合いがもたれたのではないでしょうか。

また薩長盟約はいかなる性格のものだったのか。

従来、薩長盟約については薩摩と長州が幕府打倒の名の下に結集した盟約といわれてきました。

しかし近年では薩長盟約は

長州藩の「朝敵」であるという「冤罪」を晴らすよう薩摩が尽力すること。

・当時、京都で一勢力を担っていた「一会桑」( いちかいそう  禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮・一橋慶喜京都守護職松平容保会津藩主)、京都所司代松平定敬桑名藩主)3者)が薩摩の行動を妨げるなら武力を用いて対抗することを目的としたものではないかと論じられ、「盟約」か「同盟」を巡り議論されています。

木戸は龍馬宛の手紙に薩長盟約6か条を箇条書きし龍馬に裏書を求めています。

薩長盟約6か条

一、戦いと相成候時は、すぐさま二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し浪華へも一千程は差置き、京阪両所相固め候事

一、戦、自然も我が勝利と相成り候気鋒相見え候とき、其節朝廷へ申上げきっと尽力の次第これあり候との事

一、万一敗色に相成り候とも、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事はこれなき事に付き其間には必ず尽力の次第これあり候との事

一、是なりにて幕兵東帰せし時は、きっと朝廷へ申上げすぐさま冤罪は朝廷より御免に相成り候都合にきっと尽力との事

一、兵士をも上国の土、橋、会、桑も只今の如き次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗し、周旋尽力の道を相遮り候時は、終に決戦に及ぶほかこれなくとの事

一、 冤罪も御免の上は、双方とも誠心を以て相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり

・ 龍馬朱筆の裏書

表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候。

このようにさまざまに議論されている「薩長盟約」ですが来るべき第2次長州戦争の緊張感のなかで結ばれたということを忘れてはならないでしょう。

龍馬はこの盟約の証人になった頃から龍馬は幕府に要注意人物として付け狙われていくのです。

薩長盟約締結の直後、龍馬は・・・

【追記】

劇中冒頭、龍馬が長次郎の妻、お徳に長次郎の写真と遺品を届けるシーンがありましたがあれも?です。ちなみに薩摩藩邸に長次郎の死がもたらされたのが2月10日のことでした。

岩崎弥太郎が京都で新撰組に捕縛されたというのもフィクションでしょう。

新撰組と見廻組の仲は良好でない時期もあったようですが近藤勇が見廻組幹部に土下座させられるというのはいくらなんでもやりすぎではないでしょうか?