<龍馬を語ろう> 第55回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第34話・感想

龍馬伝」第34話。「侍、長次郎」。お話の時期は慶応元(1865)年8月頃〜翌慶応2(1866)年1月。龍馬31〜32歳。

亀山社中」は「上杉 宋次郎」(うえすぎ そうじろう)の名を用いていた、近藤長次郎を中心にして「ユニオン号」を薩摩の名義で買い入れ長州へ送るという「大仕事」を行いました。史実では、このユニオン号購入〜長州への輸送は困難を極めました。

長州は、井上聞多(のちの馨)の責任で「ユニオン号」を購入。しかし長州本藩の軍艦担当部署である「海軍局」は「小銃購入」の話は聞いているが、軍艦購入に関しては聞かされていないとして一時、ユニオン号の購入を拒絶しようとしますが、ユニオン号購入の有用性を説く、桂小五郎の必死の説得により長州海軍局はユニオン号購入を了承します。

そして、それまで薩摩に滞在していたと思われる長次郎が長崎へ着いたのが8月21日のこと。また8月26日には伊藤俊輔(しゅんすけ のちの博文)がユニオン号で馬関に、翌27日には井上聞多薩摩藩船・胡蝶丸に小銃を積み三田尻へ、それぞれやって来ました。9月8日には、長州の毛利 敬親(もうり たかちか)が長次郎の薩長和解に対する尽力を賞賛し、褒美を与え労いの言葉をかけました。敬親から労いの言葉を受けた長次郎は人知れず涙を流したということです。毛利の老公に「功績」を認められた長次郎は天にも昇る気持ちだったのではないでしょうか。同日毛利家から島津家へ宛てた書状を託された長次郎は社中の仲間へ「ユニオン号購入」の途中経過を報告するため長崎に立ち寄りその日のうちに薩摩へ向けて旅立ちました。龍馬はこの8〜9月、京都・大坂にいて薩長和解・提携に向けての大枠を固めていたようです。(従って劇中中盤までフィクション)10月4日、今度は長州から薩摩への兵糧米を支援するとの話が持ち上がりました。これにより薩摩・長州両者の提携は大きく進みました。

10月8日長次郎は薩摩へ着き、薩摩家老・小松帯刀の協力も得て、18日グラバーから正式にユニオン号を受け取り、19日には薩摩に向かいました。暴風雨のため、長次郎が薩摩から「桜島丸」と名を変えたユニオン号を長州へと輸送したのが11月8日頃だといわれています。10日後の11月18日に長次郎は再び毛利 敬親に小銃・ユニオン号購入の功を称えられ大・小刀を与えられたといいます。長次郎にとって絶頂の時だったでしょう。龍馬も10月7日には馬関に入りユニオン号の到着を待っていたようです。桜島丸と改名したユニオン号は長州へ受け渡されることになりました。・・・しかしここで長州海軍局と長次郎の間に行き違いが起こります。 長州海軍局はユニオン号を「乙丑丸(いっちゅうまる)」と改名。さらには軍艦の代金を払ったのは長州であるとしてユニオン号を薩摩名義で使用することおよび亀山社中が使用することを拒絶、ユニオン号の使用権は長州にあり、と主張してきました。

ユニオン号の使用権は長州にあり、と主張してきた長州海軍局に対し、長次郎も、伊藤・井上との約定をたてに一時はユニオン号を長崎へ返すとまで主張したようです。長次郎と伊藤・井上の約定を長次郎自身が「桜島丸条約」として認めています。

桜島丸条約 原文

桜島丸条約

一、 旗号は薩州候御拝借之筈

一、 乗組之者は多賀松太郎、菅野覚兵衛、寺内信左衛門、白峰駿馬、前河内愛之助、水夫火焚従来召連之者を以航海仕り候筈
尤御国よりは士官二人乗組可申筈、其他水夫火焚等不足之分は加入申筈

一、船中賞罰之権士官共承可申筈
但始て馬関到着之節前河内愛之助、上杉宋次郎、井上氏へ対座之節御国之御方と雖も無差別御作配申候様御沙汰有之候事

一、 六百両金子は士官共預り可申筈
右之者前河内愛之助、多賀松太郎、上杉宋次郎三人井上氏へ対談之節極候事。其仔細は兼て商売之権は士官共承候筈之処、俗事方乗組に相成筈に相定候に依て右様相極候事
一、 船中諸修覆食料薪水等、士官水夫火焚等之給料、其他総て之雑費は御国より御賄之筈

一、 御国御用明之節は薩州侯御用向相弁可申筈

右六条は御国産物当時諸国御差閊に付、薩州侯御章御拝借之上、社中乗組候様御頼に付、右之次第盟約に相極候事

 慶応元丑十二月  上杉宋次郎
 中島四郎殿
 坂本龍馬殿

険悪になった長州海軍局と長次郎。このままではせっかくうまくいきかけている薩長和解・提携が破綻しかねません。龍馬はこの事態を収拾するために12月28日に「桜島丸改定条約」を長州海軍局・中島四郎との間に結びます。

桜島丸改定条約」 原文

  約束 
 一旗号ハ薩州侯御章拝借之事。
 一毎日之事務当番、士官関轄勿論ニ候得共、賞罰其外有廉事件ハ総管へ御相談之事。
 一薩州ヨリ御乗込士官、月俸只今迄之通ニ相定候事。
 一水夫、火焚等、薩州ニオイテ被相定候通有之候共、此以後働ニ応シ差引可致候事。
 一商用之儀、越荷方ヨリ一人乗組取捌之義ニ付、船中一統関係不致候得共、積荷出入之義ハ当番士官へ相談之事。
 一当舶之義ハ海軍局規則外タリトイヘ共、大略海軍学校之定則ニ従ヒ度候事。
 一碇泊中其外一統月俸之外、不条理之失費一切存不申候事。
 一船中一切之失費ハ会計方引請之事。
 一当藩商用間暇之節ハ、薩州侯運漕物相弁可申候得共、其節之失費ハ薩州ヨリ可被差出候事。
     丑十二月         坂本龍馬
                  中島四郎
   多賀松 太郎様  菅野 覚兵衛様
   寺内信左衛門様  早川 二 郎様
   白峰 駿馬 様  前河内愛之助

桜島丸改定条約」には長次郎の名前が記されていません。この時の長次郎の気持ちはどのようなものだったでしょうか。長次郎にはイギリスへの留学志望がありました。伊藤俊輔の12月10日付の木戸孝允宛の書簡に長次郎がイギリスへ留学したがっているということが書き記されています。長次郎と仕事をした伊藤俊輔井上聞多、さらには薩摩家老・小松帯刀、そしてグラヴァーが長次郎の希望を叶えようと計画していたといわれます。

慶応2(1866)年1月、長次郎は突然切腹して果てるのです。享年29。通説では長次郎の死亡日は1月14日とされていましたが近年東京龍馬会の皆川真理子さんはその論文「史料から白峯駿馬と近藤長次郎を探る‐関東例会を終えて‐」(『土佐史談』240号、2009年)の中で「井上馨文書」や薩摩の野村 盛秀(のむら もりひで)の日記・さらには長次郎の菩提寺・皓台寺(こうだいじ)の過去帳に長次郎の死亡日が24日となっているのを紹介し、現在ではこの24日説が有力となっています。(実際には23日死亡 24日早朝死亡届提出)

23日といえば「薩長盟約」締結と同時期です。長次郎が全身全霊をかけて成し遂げた薩長盟約。それが成し遂げられた日にこの世を去った長次郎。何か哀しい因縁を感じずにはいられません。長次郎が命を絶たざるを得なかった理由としては、イギリスへ留学(密航)を亀山社中の面々に咎められたからとも、桜島丸の艦長に長州海軍局の中島四郎の名があることを薩摩藩士が憤ったからともいわれています。

奉行所の嫌疑を受けたというのもおそらくフィクションではないでしょうか)

龍馬は長次郎の死を嘆き、「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」と語ったといわれ、その手帳には、「術数有り余って至誠足らず。上杉氏(長次郎の変名上杉宋次郎のこと)身を亡ぼす所以なり」と記しています。長次郎の死に対する龍馬の想いが読み取れるかのようです。
(龍馬が長次郎の意外を前に号泣するシーンもフィクションです)
長次郎には1枚の写真が残されています。腸チフスから回復したことを記念して撮影したものだといわれています。

しかしその表情はどこか寂しげで焦りを抱えているかのようでもあります。

「侍、長次郎」の本当の最期はこの写真だけが知っているのかもしれません・・・。