<龍馬を語ろう> 第46回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第25話・感想

龍馬伝」第25話。「寺田屋の母」。お話の進行時期は7月頃〜10月頃でしょうか?
エピソードの放り込みが多く、時期設定がむちゃくちゃでよくわかりません。

今回の冒頭、龍馬は「寺田屋」の女将・お登勢と出会います。劇中の「池田屋事件後」という設定を考えると元治元年7月頃でしょうか。龍馬30歳。

伏見の旅館・「寺田屋」は文久2(1862)年4月23日、薩摩の「国父(こくふ)」=(薩摩島津家当主である忠義<ただよし>の父)島津久光(しまづひさみつ)<久光については「龍馬を語ろう 第11回」をご覧ください>が「幕政改革」推進のため上京すると、その期に乗じ薩摩藩内で、京都で「突出」(とっしゅつ=武力蜂起 具体的には関白九条尚忠所司代酒井忠義の殺害計画)をしようとする者が出てきました。久光はそのような過激行動をする人々を嫌い、「突出組」の代表格である有馬新七らを同じ薩摩藩士の大山格之助らに君命を以て討たせたという事件です。

<有馬は「突出」を行なおうとした自分たちを久光に討たせることによって、京都での久光の地位をあげようとする狙いがあったとする説が現在有力です>

劇中の設定では、龍馬が寺田屋に投宿したのは(おそらく)「池田屋事件後」の元治元年7月あたりでしょう。しかし龍馬が寺田屋を本格的に使うようになったのは翌慶応元(1865)年あたりからのようです。 

お登勢さんが本当に龍馬のお母さんの「幸」さんに似ていたかは?? まあご愛嬌。

7月11日、龍馬の江戸での砲術の師で学者の佐久間象山が肥後の河上彦斎(かわかみげんさい)に殺害され京都政局には不穏な空気が漂います。

そして元治元(1864)年7月19日―京都で「蛤御門の変禁門の変)」が起こります。

この「蛤御門の変」は前年の8月18日のクーデター ―文久政変で京都の中央政局を追われた長州藩が自分たちが「攘夷」を行なったことへの「弁明」<孝明天皇を含めた朝廷がだした「攘夷決行」の命に従って長州が「攘夷」を行なったという主張>および「朝議での(公家を通した)発言権の回復」をするために行なった「率兵上京」に端を発した「戦争」
でした。

岩崎弥太郎のナレーション―「天皇をその手に取り戻し・・・云々」というのは事実と異なります)

この、京都御所を巻き込んだ「蛤御門の変」の戦況は一時、長州藩に優位に動き、長州の指揮官である来島又兵衛(きじま またべえ)は、戦国鎧に身を固め槍を振るい、一橋慶喜率いる会津桑名藩兵を相手に勇猛果敢な戦いぶりをみせ、御所突入まであと一歩というところで会津・桑名の援護に駆けつけた薩摩藩兵に足を狙撃され負傷。その場で動けなくなった又兵衛は自刃しました。 享年48歳。

また久坂玄瑞薩摩藩兵と奮闘し、命からがら御所へ突入し、前関白の鷹司政通(たかつかさ まさみち)邸で同志の寺島忠三郎とともに自刃しました。 享年25歳。

久坂玄瑞は劇中に描かれているような「激烈な主戦派」ではなく、自刃の直前まで「天皇に長州の主張を申し述べることで事態を打開しよう」と考えていました。久坂が鷹司邸に走ったのも鷹司政通の力を借りて孝明天皇に直接長州の立場を申し述べようとしたためでした。

龍馬伝」での久坂のキャラクターはどこか「単純すぎる」気がします。久坂は吉田松陰門下の「双璧」とうたわれたほどの逸材で全国の「草莽の志士」のリーダー格でした(吉田松陰が自分の妹を久坂に嫁がせていることからもその力量のほどがわかります)。ですから「龍馬伝」のキャラクターイメージのまま、久坂の出番が終わってしまうのは残念な気がします。

桂 小五郎は「蛤御門の変」の際、事変以前に結ばれた「約定」により鳥取藩を長州の仲間に取り込もうと画策しますが、鳥取藩にとって、御所に突入し、戦闘を開始した長州はもはや「朝敵」同然。 桂の「作戦」は失敗に終わりました。 その後、桂は但馬出石へと落ち延びます。この「戦争」の敗北により長州は「朝敵」の烙印を押され、明治元(1868)年の維新政府の樹立までその正式な上洛が許されることはありませんでした。

8月5日、長州は一連の「攘夷」活動の報復として、イギリス・オランダ・フランス・アメリカの4カ国連合艦隊から「砲撃」されました。まさに長州1国が内にも外にも「敵」を抱えている、そんな状態だったのです。


龍馬は、「蛤御門の変」後の7月28日、翔鶴丸で江戸より神戸へ帰り、8月1日にはお龍と祝言を挙げます。そして8月3日には薩摩藩士・吉井幸輔とともに神戸から京都へ向かいます。

同じ頃、勝海舟の使者として西郷吉之助にも出会っているようです。23日には神戸の海舟のもとを尋ね、京都の情勢などを伝えています。

(9月14日 海舟・西郷会談 海舟が龍馬たちを薩摩に預けることを心に決めていたか?)

しかしこの頃になると、神戸海軍操練所の行く末にも暗雲が立ち込めていました。

先の池田屋事件蛤御門の変に勝塾生が関係していたという事実は内々に調査され幕府の耳にも達していました。

10月21日 海舟は海軍操練所頭取を罷免され、江戸へ帰ります。翌元治2(1865)年3月18日、神戸海軍操練所は完全に廃止されます。

やがて龍馬たちは大国・薩摩へと誘(いざな)われることになるのです・・・。