<龍馬を語ろう> 第42回  つれづれなるままに〜 龍馬伝第23話・感想



龍馬伝」第23話。「池田屋へ走れ」。お話の進行時期は前回と同じく文久3(1863)年9月〜翌元治元(1864)年6月。

近藤長次郎文久3年6月20日に勝塾の塾頭・佐藤与之助の仲人で大坂の名士・大和屋和七の娘であるお徳と婚約し、9月20日に結婚します。この時、長次郎26歳。お徳24歳。(翌元治元年7月には息子の百太郎が生まれています) この結婚は長次郎にとって嬉しいことだったでしょう。この年の9月15日には勝 海舟の使者として福井へ向かっています。このように、長次郎は勝 海舟の側近・龍馬の右腕として活躍の場を得てゆきます。

 

そして、神戸海軍操練所で頭角を現した者のひとりに紀州の伊達小次郎(だて こじろう 陸奥陽之助<ようのすけ>―宗光)がいます。小次郎は紀州勘定奉行・伊達千広(ちひろ)の子として、天保15(1844)年に生まれました。父・千広が紀州御家騒動に巻き込まれ失脚すると、小次郎は「脱藩」し、海舟の神戸海軍操練所に参加。時に小次郎20歳。

師である海舟はその談話『氷川清話』のなかで若き日の陸奥宗光―伊達小次郎について、こう語り残しています。

「宗光は、おれが神戸の塾で育てた腕白ものであった。あれが、おれの塾へ来た原因は、紀州の殿様から、『わが藩には、いのしし武者の暴れ者がたくさんいるから、これをお前の塾で薫陶してはくれまいか』とのご沙汰があったから、おれはわざわざ紀州にいって殿様や家老に面会し、都合二十五名の腕白者を神戸の塾に連れた帰ることになったが、宗光もこのうちにおったのだ」

小次郎の仲間うちの評判は悪く、海舟は、

「皆の者は彼を『嘘つき小次郎』といっていた。塾生には、薩摩人が多くて、専心に学問をするというよりは、むしろ胆力を練って、功名を仕遂げるということを重んじていたから、宗光のような小利口な小才子は誰にでも爪弾(つまはじ)きせられていたのだ」

ともいっています。

龍馬はそのような小次郎の身を案じ文久3年7月22日、京都越前藩邸に岡田造酒助(みきのすけ)を訪ね、

紀州の浪士、伊達小次郎(宗光)と名乗るもの、他日必ず天成の利器となるであろうが、ただあまりに才弁を弄して浪士どもに憎まれ、あるいは殺されるかもしれない。願わくはしばらく御国許に置かれたい」

と小次郎の庇護を求めます。若き陸奥宗光の才能を見出したのは海舟と龍馬だといえるでしょう。

長次郎と宗光―2人は亀山社中で重要な役割を担い、才能を存分に発揮しますが時代はやがて2人の運命を混乱の渦へとまきこんでゆくのです。

龍馬は操練所で学ぶなかで、蝦夷地を開拓することを考えていたといわれます。その調査の任務を同じ塾生であり、同志でもある望月 亀弥太(もちづき かめやた)に任せました。

望月は元治元(1864)年5月頃、京都に滞在していたと思われます。同志を募るためでしょうか? 龍馬は5月1日、お龍に会い江戸に向かいますが、その途中土佐の同志である北添佶摩に京都を退くように進めています。

そして元治元年6月5日 池田屋事件が起こります。夜10時ごろ、旅館・池田屋近藤勇

沖田総司永倉新八藤堂平助らが踏み込み、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと戦闘を繰り広げました。

吉田稔麿(よしだとしまろ)のように池田屋を1度は脱出し、長州藩邸に難を知らせ再び池田屋に戻る途中門前で討ち死にする者もいました。

望月も池田屋を脱出し、諸藩の兵と戦い深手を負います。かろうじて長州藩邸にたどり着きますが、中に入ることを許されずその門前で自刃して果てます。享年27歳。

新撰組は20名の過激派浪士と戦い、4名捕縛・9名討ち取りという成果をあげました。

宮部ら、この日池田屋で会合を持った人々は何を話し合っていたのでしょうか?

従来、「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇彦根に移し奉る」などといわれてきましたが、実際は新撰組に捕縛された同志・古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)の救出計画を練っていたのだともいわれます。

さらに、池田屋に1時間早く到着したため、難を逃れた桂 小五郎(木戸孝允)は同時刻「対馬藩邸」にいたようです。危険を察知したのでしょうか。

幕末史上、有名な「池田屋事件」ですが、その全貌はいまだ謎に包まれています。


「望月の死」についてお龍が語った談話があります。

処(ところ)が五日の朝元山と望月の二人が三条の長門屋と云ふ長州宿へ往つて居ましたら、どうして聞き出したか会津の奴等が囲んだのです。一手は大仏へ、一手は大高某の内へと、都合三方へと押し寄せたので、元山さんは其場で討死し、望月さんは切り抜けて土佐屋敷へ走り込まんとしたが門が閉(しまっ)て這入(はい)れず、引返して長州屋敷へ行かうとする処(ところ)を大勢後から追ッ掛けて、何でも横腹を槍で突かれたのです。私は母の事が気にかかり扇岩(おうぎいわ)を飛出して行つて見ると、望月さんの死骸へは蓆(むしろ)をきせてありました。私は頭の髪か手足の指か何か一ツ形見に切て置きたい思ひましたが番人が一パイ居つて取れないのです・・・

<千里駒後日譚(せんりのこまごじつのはなし) 明治32(1899)年 抜粋>

 明治も30年を過ぎ、お龍にもだいぶ記憶違いがありますが池田屋事件の生々しさ、お龍の望月の死への口惜しさが伝わってくる聞き書きです。 (「元山」とは望月とともに犠牲になった、土佐の本山七郎こと、北添 佶摩 <きたぞえ きつま>です)

池田屋事件の一方の当事者・近藤勇は養父・近藤周斎に宛てた手紙<元治元年6月8日付>のなかで池田屋に斃れた浪士たちを、「いずれも男の中の勇者」と評しています。

龍馬は姉乙女に宛てた慶応元年9月9日付手紙で望月の死を「望月は死タリ」とたった一言で報じています。この1文に龍馬の抑えようのない哀しみが現れているかのようです。

池田屋事件は、過激派浪士の活動を鎮め、新撰組の名を幕末政局に刻み付けました。そして龍馬や勇の心に大きな「何か」を遺したのです・・・。