<龍馬を語ろう> 第41回  つれづれなるままに〜 龍馬伝第22話・感想



龍馬伝」第22話。「龍という女」。お話の進行時期は文久3(1863)年9月〜(岡田以蔵が捕縛されたことを考えると)、翌元治元(1864)年5月頃でしょうか? 龍馬29〜30歳。

文久3年9月21日 武市半平太以下河野万寿弥・親戚の島村衛吉など計8名の土佐勤王党員が捕縛され、牢に入れられました。

その罪名は「右者、京都へ対し、そのままにおかれ難く、其の余御不審のかどこれ有り」といった非常に曖昧なものでした。半平太この時35歳。同年11月12日には半平太の実弟である田内衛吉(たのうち えきち)が捕縛され入牢。老公・山内容堂の勤王党への警戒は日に日に激しさを増していきました。そして半平太への初めての尋問が行なわれたのが元治元年の5月26日のことでした。

勤王党に弾圧の嵐が吹き荒れようとしていた最中の文久3年9月〜翌元治元年6月頃まで、龍馬は、どのような行動をしていたのでしょうか。

 

8月19日に勤王党同志で縁戚の川原塚茂太郎に宛てて、「坂本家養子問題」への尽力を依頼した手紙を書き大坂を出立します。

また8月の下旬には「天誅組」に参加した吉村虎太郎の「敗走」を乙女と、姪の春猪に手紙で報じています。

○先便御こしの御文御哥など、甚おもしろく拝見仕候。

私事ハ急用これあり、今日江戸へ参り申し候間、其御被知かたゞ先日の御文御哥さしあげ申候。○先日大和国ニてすこしゆくさのよふなる事これあり。

其中に池内蔵太吉村寅太郎、平井のあいだがらの池田のをとをと、水通のをさとのぼふずなど、先日皆々うちまけ候よし。

これらハみな〜しよふがわるいニつき、京よりうつてを諸藩へおふせられ候ものなり。

皆々どふもゆくさする事をしらず、唯ひとまけにまけ候よし、あハれ私がすこしさし引をもいたし候時ハ、まだ〜うつての勢ハひとかけ合セにて、うち破り候ものをと、あわれに存申候。

先ハ早ゝ、   頓首。

           龍より

 乙様

 春猪様

   足下

猶かの柳のよふしのつがふの事ハをもわくいつふハいの所は川らづかまで申やり候。其文御らん〜。

 (日付未詳 乙女・春猪宛)

天誅組」敗走の手紙を書き約1ヶ月過ぎた9月23日、龍馬は沢村惣之丞とともに大久保一翁を訊ねます。

そして10月3日 幕府から神戸海軍操練所設立の正式な許可が下ります。

 

しかし、3日後の10月6日 朝廷は文久政変の余波を受けて、浪士への詮索の命が下ります。(11月7日 松平春嶽に面会し、幕政について話し合い、春嶽の側近である中根雪江より15両貰い受けています)

9月に老公・山内容堂から土佐勤王党員へ出されていた「帰国命令」が11月の下旬、塾生・望月 亀弥太・千屋寅之助によって勝海舟にもたらされ、龍馬たちの耳にも伝わりますが、龍馬たちはこれを無視。海舟も龍馬たちの帰国延期を願い出、土佐藩へ手紙を書きますが認められず、龍馬らは翌年2月には再び「脱藩者」となります。

2月19日・4月6日の2度、横井小楠を訪ね、特に4月6日の面談では小楠の息子・左平太を海舟のもとに預けるようにと依頼されています。

そして龍馬はおもしろき女・「お龍」に出逢います。龍馬とお龍の出逢いは5月頃ともいわれています。

お龍との出逢いは東奔西走している龍馬にとって心の安らぐ出来事だったのでしょう。

慶応元(1865)年9月9日の乙女・おやべ(春猪の別称?)に宛てた長文の手紙で、「お龍」のことを報じています。

・ 慶応元年9月9日付 姉・乙女 おやべ宛 龍馬の手紙抜粋

  京のはなし然ニ内〻ナリ

とし先年雷三木三郎、梅田源二

郎、梁川星巖、春日など

の、名のきこへし諸生太夫が朝廷

の御為に世のなんおかふむりし

ものありけり。其頃其同志

にてありし楢崎某と申医師、

夫も近頃病死なりけるに、

其妻とむすめ三人、男子

二人、其男子太郎ハすこし

さしきれなり。次郎ハ五歳、

むすめ惣領ハ二十三、次ハ十六

歳、次ハ十二なりしが、本十分

大家にてくらし候ものゆへ、

花いけ、香をきゝ、茶の湯

おしなどハ致し候得ども、

一向かしぎぼふこふする事

ハできず、いつたい医者(いしや)と

いうものハ一代きりのものゆへ、

おやがしんでハ、しんるいと

いうものもなし。たま/\あるハ

そのきよにじよふじて、家道

具などめい/\ぬすみてかへりたる

位にて、そのとふじハ家や

しきおはじめどふぐじ

ぶんのきりものなどうりて、

母やいもふとやしないありしよし

なれども、ついにせんかたなく、

めい/\とりわかり、ほふこふ致し

候てありしに、十三歳の女ハ殊

の外の美人なれバ、悪者これ

おすかし島原の里へまい

子にうり、十六ニなる女ハ

だまして母にいゝふくめさせ、

大坂に下し女郎ニうりし

なり。五歳の男子ハ粟田口

の寺へつかハせしなり。夫

おあねさとりしより、自分

のきりものをうり、其銭を

もち大坂にくだり、其悪もの

二人をあいてに死ぬるかくごにて、

刃(ハ)ものふところにしてけんくわ

致し、とふ/\あちのこちのといゝつ

のりけれバ、わるものうでにほり

ものしたるをだしかけ、ベラボヲ

口(グチ)にておどしかけしに、元より

此方ハ死かくごなれバ、とびかゝりて

其者むなぐらつかみ、かを

したかになぐりつけ、曰(イハ)ク其方が

だまし大坂につれ下りし妹

とをかへさずバ、これきりであると

申けれバ、わるもの曰ク、女のやつ殺す

ぞといゝけれバ「女曰ク、殺し殺サレ

ニはる/″\大坂ニくだりてをる、夫ハ

おもしろい、殺セ/\といゝけるニ、

さすが殺すというわけニハまい

らず、とふ/\其いもとおうけ

とり、京の方へつれかへりたり。

めづらしき事なり。かの京の島原

にやられし十三のいもふとハ、とし

もゆかねバさしつまりしきづかい

なしとて、まづさしおきたり。

お龍の父について・お龍がやくざとやりあったことがきっちり書かれています。

劇中、龍馬が捜し歩いていた岡田以蔵―実際には半平太が捕縛されて以後も京都にひっそりと潜伏していたといわれます。身持ちが悪く借金を繰り返し、土井鉄三と変名し、無宿人となりますが、元治元年5月頃、捕縛。土佐へと送り返され、6月14日牢に入れられます―

龍馬と以蔵と近藤勇の3ショットは視聴者サービスでしょう。

新撰組は前身となる壬生浪士組文久3年2月23日上京 同9月18日 芹沢鴨が殺害され近藤勇を局長とする体制が築かれました)

土佐では7月に後藤象二郎が「大監察」に就任。これを期に勤王党員に対する文字通りの「大弾圧」が始まりました。

半平太にも以蔵にも過酷な運命が待ち受けていたのです・・・。