<龍馬を語ろう> 第23回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第12話・感想
「龍馬伝」第12話。お話の時点は文久元(1861)年8月、前回に引き続き土佐勤王党結成から、おそらく龍馬が土佐へ帰国する2月くらいまでの時期でしょうか?エピソードの盛り込みすぎで正確な時間軸がわかりません。ツッコミどころ満載の回でした。龍馬27〜28歳。
さて、土佐勤王党についてです。下士ら192名が名を連ねました。龍馬は9番目に署名。武市半平太は文久元年8月までに江戸で同志を集め、龍馬は土佐でいの一番に署名したといわれています。池内蔵太・吉村虎太郎のように過激派で後に除名されたもの・岡田以蔵のように自ら割り込んできたもの・中岡慎太郎の師で、富国強兵策の考えを持ち、吉田東洋ともつながりがあった間崎滄浪など勤王党員にも様々なバリエーションがありました。
勤王党の群像は土佐一国に跨っていました。面識がないということもざらだったでしょう。
龍馬は周りと考えが異なり武市の暴走を止めるためにしぶしぶ勤王党入りしたかのような描写をしていましたが、それは違います。龍馬もこの時点では間違いなく武市の同志でした。薩長に土佐を加えようとした武市の発想を丁寧に描くべきだと思います。
文久2年龍馬が久坂玄瑞のもとへ足を運んだのも武市の意を汲んでのことでしょう。
久坂玄瑞は吉田松陰門下で高杉晋作と並ぶ秀才です・・・。そのわりには人物造形軽すぎません!?ピエロじゃないんだから・・・(笑)
龍馬の使命は久坂に会い、武市の書状を渡すことでした。久坂は吉田松陰の思想・「草莽掘起論(ごく大雑把にいうと、草むらの中にいるような下級の志士たちよ行動を起こせ! というような意味です。)
この久坂との議論が龍馬の脱藩に影響を与えたといわれています。
武市も最初から暗殺という手立ては考えず、久坂に土佐の現状を長州へ訴えようと考えたのではないでしょうか。
久坂は武市宛の手紙に龍馬と十分話し合ったと述べた後、同じ手紙のなかで
「つひに諸侯恃む(たのむ)に足らず、公卿恃むに足らず、草莽の志士を糾合、義挙のほかにはとても策これなきことと、私共同志中申し合わせ居り候ことに御座候、失敬ながら、尊藩も弊藩も滅亡しても、大義なれば苦しからず」とも述べています。
久坂との会見は龍馬にも大いに刺激になったことでしょう。
ドラマでは龍馬に久坂の存在を知らせることになった沢村惣之丞。龍馬とともに脱藩します。
吉田東洋が武市を足蹴にしていましたが、そこまではしないでしょう。武市の身分は「白札」(しろふだ)といって準上士ですからね。
今回は細かい台詞回しなども気になりました。
人物造形・背景はきちんと書き込んでほしいです。次回は吉田東洋暗殺・脱藩の様子が描かれるのでしょうか。
【追記】
龍馬が加尾に「奇妙な」手紙を宛てたのは土佐勤王党結成前後のこの頃のこと。
先ず先ず御無事と存じ上げ候。天下の時勢切迫致し候に付、
一、高マチ袴
一、ブツサキ羽織
一、宗十郎頭巾
外に細き大小一腰各々一ツ、御用意あり度存上候
文久元(1861)年9月13日
この手紙は龍馬が京都へ潜入するため、加尾に衣装を用意するよう依頼した手紙だとも、龍馬が加尾に男装させ御所へ潜り込み情報探索を依頼した手紙だともいわれています。
緊迫した情勢下に書かれた「謎の手紙」です。
そこに龍馬と収二郎の協力関係が透けて見える気がします。