<龍馬を語ろう> 第21回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第10話・感想

龍馬伝」第10話。「引き裂かれた愛」。進行時期は安政5(1858)年で龍馬24歳。
 あい変らず盛り込みすぎな気がしますが・・・。今回は龍馬と加尾の「別れ」がメインテーマでした。
 
冒頭のシーンで、龍馬が千葉定吉から「北辰一刀流目録」を授かっていましたが、
正確には「北辰一刀流長刀兵法目録」で薙刀の目録で刀の目録ではありません。

安政5年は、日本がアメリカと「日米修好通商条約」を締結した、幕末史上重要な年でした。日米修好通商条約締結よりさかのぼること4年。

嘉永7(1854)年に締結された「日米和親条約」の規定により下田に着任した(安政3年=1856)アメリカ総領事(≒公使)・タウンゼント・ハリスは日本との自由貿易を望んでいました。
幕府は当初、ハリスの要求を拒否しようと「ぶらかし」を行いますが、ハリスの強い主張により通商条約やむを得ずという雰囲気が出てくると、時の老中・堀田正睦孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結をするように計画を練ります。

堀田は朝廷へ条約工作へと向かいますが、岩倉具視ら若手公家らの猛烈な反発を受け、孝明天皇も貿易で異国人が国内に入り込んでくるという状況をよしとしませんでした。

結局条約の朝廷工作は失敗。その責を負い、堀田は辞職しました。

堀田の後を担ったのがかの有名な大老井伊直弼でした。

井伊はなかなか首をたてに振らない朝廷を尻目に独断で「日米修好通商条約」を締結しました(安政5年6月19日)。

その内容は下田・函館のほか新たに神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、外国人居留地の設定、領事裁判権の承認、関税自主権の否定など、その後の日本にとって、不平等な条目ばかりでした。その後,ひきつづきオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間にも,同じような通商条約が結ばれました。

さらには病弱であった13代将軍徳川家定の後継をまたも独断で紀州の慶福に決定しました。

井伊の独断である条約締結を朝廷・天皇の意志をないがしろにした行為であると憤慨した水戸の「攘夷」論者(天皇の意志を尊重し外国人を打ち払え、とする人々)は朝廷に働きかけ、井伊を弾劾(責めたてる)詔である「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)を下させました。

龍馬が江戸から土佐へ帰国したのが9月3日。(この月から安政の大獄が始まっています)

帰国してまもない11月、前回ワンシーンだけ登場した水戸藩士の住谷寅之助が同志の大胡聿蔵とともに、龍馬を訪ねて来ました。住谷らは井伊政治の打破を目的として、全国の情勢探索と協力を土佐へ求めるため龍馬に会見を求めたのです。

肝心の龍馬は住谷たちの話をのらりくらりとかわしたのか、本音をしゃべらなかったのか、
住谷はこの時の龍馬の印象を

「龍馬誠実、かなりの人物、しかし撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」と書き残しています。

土佐山内家も反井伊派で、翌年1月山内豊信(やまうちとよしげ)も幕府により蟄居に処せられます。土佐も水戸も、同じような状態で今はむやみやたらに行動を起こす時ではない、と龍馬は感じていたかもしれません。

安政5(1858)年はまさに「激動」の名にふさわしい年でした。

安政5年当時、龍馬と加尾が「恋愛」と呼べる関係にあったのかどうか?

しかし加尾が京へ行っても、京都から戻ってきても、龍馬の手紙に加尾のことが触れられているので龍馬は加尾をこころのなかで思い続けていたのかもしれません。

その手紙のことはまたいずれ。

思いつめた武市さん。いいですねえ

次回は土佐勤王党結成! 「土佐沸騰」の季節はすぐそこまでやってきています。