<龍馬を語ろう> 第18回 つれづれなるままに〜 龍馬伝第7話・感想

龍馬伝」第7話。話の進行時期は1854(安政元年)、江戸の剣術修行を終え土佐へ帰ってくるところから河田小龍(かわだしょうりょう)出会う頃まで。

秋近くのお話だといわれています。龍馬20歳。河田小龍のプロフィールを少し。小龍は文政7(1824)年に船役人の家の生まれました。弘化元(1844)21歳の時、吉田東洋に従い上京、狩野永岳に絵画を学びます。(ちなみに16歳の頃岡本寧浦に学問を学んでいます。岩崎弥太郎や「饅頭屋」近藤長次郎と同窓生になります。また長次郎は江戸で弥太郎から学問を習っています。
このあたりが維新の人物関係の妙だなあと思います。長次郎があんな悲劇的最期を迎えるとは・・・です。)

脱線しました。小龍に戻りましょう。1848年(嘉永元年)25歳の時には、二条城襖絵修復には師とともに従事。1852年(嘉永5年)29歳の時、アメリカから帰国した漁師・中浜万次郎(ジョン万次郎)の取り調べに当たりその話を著書『漂巽記略』(ひょうそんきりゃく)にまとめ、土佐の人々に紹介し自ら薩摩の殖産興業を研究するなどの開明的な発想を持っていました。

そんな小龍と龍馬が出会ったのは、小龍30歳・龍馬21歳の頃のことでした。

先ほどの近藤長次郎の履歴について、小龍が述べた「藤陰略話」(とういんりゃくわ)という談話に二人の対面の様子がでてきます。

それによると龍馬は、ある日ふと河田小龍のもとを訪ね、「事態の事にて君の意見必ずあるべし。聞たし」と時勢を処する意見を求めました。

これに対し小龍は、「吾れは一介の画人で文人隠士に過ぎない、何ら君の真情に答える意見等持合わせぬ」と答え追い返そうとしました。

そこで龍馬は、「今日の時世において、筆硯の影に隠れて文雅に安逸を求める時代ではない。我々若者がかくも日夜悶々の日々を送る現在、何卒君が進むべき指針を与え給え」と迫ると小龍は、「愚存は攘夷はとても行わるべからず。仮令開港となりても、攘夷の備なかるべからず」と自説を語りました。


小龍も姿勢を正し、「此迄我邦に用ゆる所の軍備益なかるべけれども、未だ新法も開ざれば、何や歟や取用いざるべからず。其中に海上の一事に至ては何とも手の出べき事なし。已に諸藩に用い来りし勢騎船などは、児童の戯にも足らぬもの也。先ず其一を云うには弓銃手を乗せ浦戸洋へ乗出せば、船は翻転し弓銃手とも目標定めがたく、其上に十に七、八は皆船酔して矢玉を試ムむまでに及ばず。たまたま船に堪ゆるものありとも一術を施に及ばず。大概沿海諸藩皆此類なるべし。箇様のことにて外国の航海に熟したる大鑑を迎えしとき、何を以て鎖国の手段ヲをなすべきや。其危きは論までもなきこと也。今後は我拝に敵たわずとも、外船は時に来ること必然也。内には開鎖の論定まらず、外船は続々来るべし。内外の繁忙多端にして国は次第に疲弊し、人心は紛乱し、如何とも諠方なく遂に外人の為、呂宋の如く牛皮に包まるることにも至らんや。此等のこと藩府などへ喋々云立たりとも聞入べきことにもなく、実に危急の秋なるべし。何為ぞ黙視し堪ゆべけんや。故に私に一の商業を興し、利不利は格別、精々金融を自在ならしめ如何ともして一艘の外船を買求め、同志の者を募り、之に附乗せしめ、東西往来の旅客官私の荷物等を運搬し、以て通便を要するを商用として、船中の人費を賄い海上に練習すれば、航海の一端も心得べき小口も立べきや。此等盗を捕、縄を造るの類なれども、今日より初めざれば、後れ後れしして前談を助くるの道も随て晩れとなるべし。此のみ吾所念の所なり」と構想を披露した。

龍馬は手を叩いて喜び、「僕は若年より撃剣を好みしが、是も所謂一人の敵にして、何にか大業をなさざれば、とても志を伸ること難しとす。今や其時なり、君の一言、善く吾意に同ぜり。君の志何ぞ成らさらんや。必ず互いに尽力すべし」と堅く盟約を結び別れた。

後日、再び龍馬は小龍のもとを訪れ、「船且器械は金策すれば得べけれども、其用に適すべき同志無くんば仕方なし。吾甚だ此に苦しめり。何か工夫のあるべきや」と尋ねた。
すると小龍は、「従来俸禄に飽たる人は志なし。下等人民秀才の人にして、志あれども業に就べき資力なく、手を拱し慨歎せる者少からず。それ等を用いなば多少の人員もなきにあらざるべし」と答えた。

龍馬も承諾し、「如何にも同意せり。其人を造ることは君之を任し玉へ、吾は是より船を得を専らにして、傍ら其人も同じく謀るべし。最早如此約せし上は、対面は数度に及まじ、君は内に居て人を造り、僕は外に居て船を得べし」として別れを告げた。

「藤陰略話」は明治になってからの談話で、小龍の記憶違いなど、そのまま鵜呑みにすることはできないといわれていますがだいたいこのようなものでしょう。

また小龍が土佐で製塩業を始めようとした時、京都にいる龍馬がその資金調達をしようとしたというエピソードが残っています。慶応2年頃の話かと思われます。
その後、明治31(1898)年76歳で亡くなります。小龍は龍馬を最初に羽ばたかせた人物といえるでしょう。龍馬は小龍の家で、さきの近藤長次郎のほかに長岡謙吉・新宮馬之助など、のちの亀山社中海援隊の主要メンバーとも友人になります。

龍馬が半平太・弥太郎と小龍の家を訪れた、小龍が龍馬の家を訪問した、というのはやっぱり(笑)フィクションです。

リリーフランキーの小龍はひょうひょうとした感じが良かったですね。どこか「おーい竜馬」の小龍と通じるような気がしました。

この年の12月1日、父・八平が亡くなります。

しかし弥太郎が坂本家の内情をよく知っていること(笑)

次回は龍馬が再び江戸へ剣術修行に旅立ちます。